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    エッセイ(雑記)【13】壊れた時計と五十時間〜1





    (1732字)
     僕のことを語ってみたい。壊れかけた安っぽい時計は部屋の隅に打ち捨てられ、次第に積もる塵埃をも、気の端へわずか思わずに済ませられる。自身へ限ってみれば僕の語りは、その類のものではないはずだ。
     この物語はすでに産まれたときから始まっていたのかもしれない。それでも、このことに気がついて考え始めたのは最近になってだった。常に自分とともにあったこのあやふやな、掴みどころのない塊の形は、大体世間一般で考えられている通り、失いそうになってからあるいは失ってから多くが気付くとされているものに似ていた。そう、時計が壊れても時間は進む。僕以外の時間は。

     その頃高校を卒業したばかりで、学校の紹介した仕事には就かずにいた。卒業してから一年くらいはフリーターをしていようと思っていたのだった。何かの仕事に就けだとか、他にも日々の生活に対する態度については、多少の小言を言われることについては我慢しなくてはいけない。それは早いうちに解決されなければならない問題であると両親は思っていたようだったが、続いて二十歳前後の身の振り方がはっきり覚束ずにいる若者にありがちな質問としてなされるであろう、交友関係の問題については必要以上に詮索されなかった。
     実際には当面生活に困らない程度にアルバイトをやるつもりだったし、昔から質の悪い友人との付き合いは無かった。その点では本当に潔白だったといってもいい。親の心配のうち、高校を卒業してから何もせずにぶらぶらしているという点に関しては、確かにこちらに非があった。とりあえずアルバイトを探すとの口約束でその目に備えていたのだ。

     一つ忘れてはならないことがある。僕は小説家になろうと思っていたのだ。高校のときに読んだ様々な作家の小説に影響を受け、自分も文章を書いて生活をしていけたらどれほどいいだろうかと。
     子供の頃から本を読むことはそれなりに好きだったし、ある時に知って以降も文章を書いているだけで生活している人々にはいまいち実感が湧かなかったものの、興味程度は持っていた。小説家になろうとわりにはっきり思うようになったのは、高校三年生くらいだった。世間では小説が好きで小説家を目指す(目指した)人間に聞いてみれば、本当かどうかは別にして中学生くらいか、場合によってはもっと子供の頃になりたいと決意したなどという人もいるのだろう。
     当時の僕は、適当に頭に浮かんだ物語の核になりそうないくつかのイメージの断片を紙に書き付けたり、せいぜい数枚の画に過ぎないまでの物語の種から、いくつかのそれらしい場面や世界観のようなものを捻り出したりといった、いわば助走の兼ねた遊びと訓練をしていた。または頭の中で考えて色々といじりました挙句に、思っていたよりもつまらない場面しか浮かばないということになると、ノートを開く機会は次に送り頭の中の空想は混沌の暗がり中に消えていった。
     
     いまにして思えば、紙に書き出してない時点で相当の筆不精だったのか、確かにそれは事実なのだけど。僕が頭の片隅に浮かべた、ほとんど無意味でまとまりのない言葉のきりぎれが口からついて出るとき、それを一言も逃す暇[イトマ]すらなく、出来るならば言おうと思っていてつい失念したり、また場合によっては様々な理由から躊躇や遠慮したことまでも、控えめに補足して記してくれる人がいてくれればいいと本気で思っていた。昭和の初めの頃の小説家の話だったか、奥さんに口述筆記をして貰っている場面が書かれた私小説を読んだことがある。
     どちらにしろ情熱はそこそこにはあったとしても、心理的な情景として思いついた一つの場面だったり如何にも釣り合った心理を持ち合わせていそうな、それでいて興味深いと感じる人物像を文章にする技術は全然無かった。小説家になりたいと思った当時を思い出すと、いややはり、いまでも同様にまともな文章を紡ぎだす能力というものが欠如している。
     僕はどんな物事でもゆっくりやればいいさと考える質なので、徐々に文章の腕を磨いていけばいいだろうくらいに考えていた。地道にやっていれば小説家にでもいつかはなれるかもしれない。デビュー作で文壇に華々しく現れる自分の姿をしばし想像したりもした。



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    エッセイ1話まとめ(物語構成)【12】僕らはイカロス






    (※1)
    昔ギリシャのイカロスは
    蝋で固めた鳥の羽


    (全5327字/2012.10.22記す)
     小学校三年生までの僕には友達が一人もいなかった。微かにでも憶えている顔といったものすら一つもない。他の文章にも書いた通り、近所にそのような関係とおぼしき子供が一人住んでいたはずが、彼の姿は学校では一度も確認しなかった。だから正確に言えば、学校には一人も友達がいなかったということになる。

     いつ初めて声を掛けられたのかは全く記憶にない。どんなきっかけだったのか。

     自分がどこにいるのかはなんとなく分かっていても、そこで何をすればいいのかはいまいち理解出来なかった。まずはここにいなければいけないらしいとの決まり事を教えられる。そしてここにいるというだけで(いるのだから)、僕はどうやらふさわしい何かをしなくてはいけない状態にいつの間にかなっていた。
     休み時間にはただ周囲を見回しながら、何もすることがない自分に少しだけ気がつく。授業中には先生の言うことをなんとなく聞き、書けと言われた文字をノートに写したりしていた。
     何のためにそんなことをするのか分からず、周りの皆に合わせて筆記帳の見本に近づけるように文字の書かれた点線をなぞる。簡単な数の計算が繰り返し黒板の上で行われる。僕にも足す引く掛ける割る……の計算くらいはある程度理解出来たので、自分の目の前に藁半紙のプリントが配られると、言われるままに目の前のそれを解いていった。

     教室の後ろには一列にロッカーが並んでいたが、中ほど辺りで男子児童のR地に話しかけられていた。どんなことを話したか、霞むように手が届くかどうか曖昧な距離に浮かぶ件の場面以外は全く記憶にない。僕の中には他人に伝える意味や話す価値のあるものなど何もなかったと、いま現在思い返してみるとやはりそう感じる。

     休み時間になれば飽かずにも集まって話をし、笑い合って教室中を走り回っている同じクラスの中にいる彼らは何を見、何を求め、何を楽しんでいるのか検討もつかなかった。
     どうしてそんなことをするのか、何故よく知らない人間に話しかけないといけないのか。本当にしたくてしているのか。そういったことは少しだけ面倒だし苦痛だし、……右隅の細かな疵が窓から入ってくる昼前の光を幾重にも散らしている様子に一瞬目を惹かれながら、机の静まり返った左隅に向けて斜めに視線を落としやがて顔を伏せた。
     僕はこの文章を打っているいま、自分のことを馬鹿で無能な人間であると分かっているが、当時はそんな程度の事実すら気付かなかったのだろう。

     本棚においてある分厚いファイルをめくると、R地から受け取った封筒と半分に切られ畳まれた便箋が姿を現す。「また遊ぼう」短く一言だけ。小学校三年生の男子児童らしいあまり上手くない文字。封筒の表には僕の名前と差出人の苗字、切手は貼られていない。そして郵便番号の欄にはやはり僕の名前がある。
     見た感じからするとおそらく手渡しをされたか、もしくは郵便受けに彼は密かに投函したのかそんな姿も想像される。
     さらに小さな子供が行うごっこ遊びの延長線上とも言えるし、他人に手紙を出す等の社会的な行為に惹かれる部分があったのかもしれない。僕を『友だち』として公的に認める効力がそこにはあると、彼は周囲にも自分の意思を積極的に告げることになると期待したのか。
     家族の付属品としてではなく、多分、人生で初めて自分宛に来た手紙だ。両親宛の手紙の宛名に「皆様」として書かれていたとしても結局は、片隅のついでにといった具合でとりあえず小さな子供の様子を窺うための社交辞令とは違う。何故なら、その視線は実際にはこちらを向いてはいないから。





    〔2〕/〔3〕
     彼の家は坂の上にあるという。普段から外遊びなどしない僕は体力もあまりなかったので、随分と息を切らしながらこんな急な道を毎日登り降りするのは本当に大変だろうと喘いだ。
     考えも碌にまとまらないままにほとんどうつむきながら、時々空を仰いて大きく息を吐き出しつつ。彼は少し先を歩き指先で方向を指示し、顔を上げて確認をした僕は再び地面に視線を落とす。霞んだ遥か彼方にしか見えもしない行き先をこの目に捉え続けていることはどうにも耐えられず、下を向いて自分の足が間違い無く動いているだけを頼りにするしかないのだった。
     気がつけば、彼の家がすぐそこに見える曲がり角にまでたどり着いていた。ゆっくりと周囲を見渡しながら初めて目にした景色を確認する。R地は数メートル先で、まるで待ちわびたかの笑顔で僕を手招きしていた。
     大きな駐車場に面したアパートだった。戸数に対しては容量が多く、簡単な車止めがあるだけの鉄柵すら無い駐車場だったので、その辺り一面の地主が後から住居を一棟建てることにしたのかもしれない。順序はよく分からないが。

     内部は長方形をしていて、手前にダイニングキッチンがありさらに二部屋が続いている間取りだったと記憶している。玄関を開けると早速真ん中の部屋に案内された。
     しかし七割がた開け放たれた襖の先には寝そべって主人の帰りを待つ中型犬、シェットランドシープドッグの姿。僕は小学生当時犬を苦手としていて、中に入れずに躊躇していたこちらの素振りを見たR地が気を利かせ、一番奥の部屋に移動してくれたのだ。
     飼い主からしたらどうということもないのだろうが、その手馴れている一連の動作に感心したものだった。あんなに大きくて凶暴そうな(犬が怖い子供にはそう見えた)犬に言うことを利かせ声も一切上げさせず、全く抵抗する様子もなく従わせ隣室に移らせるなど信じられないと。
     TVを少しの間眺めていたがこちらが手持ち無沙汰にしていると感じたのか、しばらくしてから二人でゲームをやることになった。
     僕らの世代辺りからはありがちな光景として、子供同士で互いの家に呼び合った時にはファミコンを一緒にやる(当然ファミコンがあればだが、場合によってはゲーム機本体を友達の家にまで持って行く子もいた)、いわば新たな遊びのスタイルというものが作り出されて急速に広がり、結構な定番と言ってもいいくらいのものになったのではないかと思う。もちろん外遊びのほうが好きな子もいたし、のちに彼と二人で少し遠い地域にまで探検をしに行ったことも何回かあった。そういえば子供なりの無邪気なイタズラをして遊んだ、僕にしては初めてとなる経験をしたことも。

     幾時間かそれまでの全てを忘れゲームに熱中していたところへ、彼の母親が帰ってくると一度だけこちらに顔を見せ、すぐ忙しそうに食事の支度を始めた。R地は一見すると少しタレ気味の甘い目をした優男風だったが、較べると母親はいくらかはっきりした目鼻立ちをしていた。二、三言葉を交わしただけに過ぎなかったものの、口数は多くなく雰囲気は落ち着いていても、それはある種の大人の女性が持っている、子供を萎縮させる冷たさから現れたものではなかった。
     つまり、のちに会話をした時の表情からしてもそうで、時々パッと明るい表情をすることもある美しい人だったなと、いま輪郭は朧気であっても懐かしくある。
     帰りは自宅と彼の家の中間地点くらいまで送ってもらった。僕は見知らぬ遠くの街に出かけ少しだけ不思議な体験をした気分でいて、そしてまた呼ばれればいいなと帰り来た道を振り返ってみるさなかに微かな期待が胸に産まれていた。坂の上にいる彼の姿がいまは見えずとも、変わらず手を振っていてくれそうな気がした。





    (残2332字)〔3〕/〔3〕
     引越しをすると知ったのは小学校四年生のいつのことだったか。もう学校に来なくなった彼は、その日僕を自宅まで迎えに来て新築寸前の家に招いてくれた。つまり、個人的なお披露目を受ける運びとなったのだ。もうじき引き払う予定のアパートも結構遠いとは感じていたが、新居はそこから歩いてもさらに数十分の距離があり、学区が異なるために転校することになるのだという。引越し先までの道のりの長さは子供の身の丈としては最も単純に、実に冷徹なほどの現実の重みとしていやがうえにも知らしめさせた。

     綺麗な家だった。光がふんだんに取り込める天窓のついた、家族の集まる広いスペースがまずは目につく。
     少し現在の僕が補足する。機能的な造りの明るく使いやすそうなキッチン、伸縮式のはしごを登った先にある、子供が走り回れるくらいの高さと奥行きのある天井収納を始め、覗かせてもらった納戸も物を置くだけではもったいないくらいの充分過ぎる広さだ。周囲を囲む形の各部屋から中心のLDKへスムーズに、のみならず洗面所やバルコニーへは個室からも移動可能な複路になっていて、移動のパターンが時間帯や多少のプライバシー条件で変化した際にも、快適に利用が出来るようになっている。
     つまるところ住人の様々な利便性(個人的、家族集団的側面両者で)や生活動線を考えた上での設計なのだろう。
     僕は口を半分開け放ったまま、人の顔さえ反射しそうなほどに綺麗なつやのあるフローリングの床やら、ちょうど昼時の光が気持ちよく降り注ぐ天窓をただ感心と驚きに包まれ眺めていた。そして、いくらか照れくさそうでもあり誇らしげにも見える手に引っ張られ、最後に彼の城へ――子供部屋が用意されていることは言うまでも無い。
     膝をつき部屋の片隅で後片付けをしていた彼の母親が立ち上がり、ひと通り内覧を終えリビングへ戻った僕らを迎えるようエプロンを外した。同時に額の汗を袖口で軽く拭い、やや視線を合わせずにいた顔が向き直ると、幾分の疲れとそれ以上の充実感に満ちた柔らかい笑顔となり、ケーキがあるからと二人を促した。子供たちが椅子に腰を下ろすのを横目で確認してから、自分は少し冷めてしまった薬罐にもう一度火をかけた。中央は白い磁器製のタイルか何かだったか、二回り大きな分厚いガラスの天板が乗せられた、綺麗で頑丈そうで、高価そうな真新しいテーブル。

     ○○君また遊びに来てね。そうだ、夏休みになったら泊まりに来いよ。僕は声を掛けられる度に相手の顔を見直し、両親のことやら彼から話される以前遊んだ時の思い出などに丁寧に答えた。会話が一旦途切れ空白が開くと新しい学校へ転入するための準備について親子で話し始め、僕はなんとなくホッとするとケーキを包むビニールについたクリームをフォークで削ぎ何度か口に運んだが、ふとその姿が誰かに見られている気がして落ち着かなくなり、ビニールをさっさと畳んでしまった。すでに微温くなっていた最後一口の紅茶を、音を立てずに飲み込む。

     じゃあそろそろ時間も時間だから、ということになった。螺旋状の階段を彼に続いて降りていると、踊り場辺りで何故か突然自分の家のことが胸に浮かんできた。トタンの古くみすぼらしい外見をしているその姿は、綺麗な新居を目の当たりにしている僕に対して妙に悔しさや惨めさの込み上げる気分を与えた。自分の家の親もあんなに頑張って働いているのに、なんで……。少しだけ涙目になっていた。
     いま振り返ってみれば子供らしくもない、まるで嫉妬をする大人さながらの唐突なイメージの対比をもちだしてきたものだ。あの時の状況では優先順位の一見低そうな事柄に対して囚われているのが、可笑しく見えなくもない。ただ、とりとめのないようで案外気にすることであったりして、些細な物事について妙なほどに反応を示す心理の不安定さが子供にはあったりもする。
     
     いよいよ別れの時。またいつでも遊びに来てくれよ、R地は新居から出て最初に差し掛かる坂の頂上まで数十メートルを見送り、笑顔で二度三度と頷き大きく手を振ってくれた。それでも、もうきっと無理で、こんな遠くまで来れないと感じていた。坂の入り組んだ道は覚えられないし、それに違う学校に通う人間と遊ぶといった行為が本当は間違っていることなのかもしれないと、どうにもその怖さが拭えず――。
     僕には分からない。本当に、……本当に何も分からない。

    (※1)
    昔ギリシャのイカロスは
    蝋で固めた鳥の羽
    両手に持って飛び立った
    雲より高くまだ遠く
    勇気一つを友にして
     
     R地に教わった歌だった。この文章を書いている最中に思い出したことだが、件の曲の譜面はおそらく教科書に載っていた。確か、蝋の翼を持ったイカロスが悲壮な面持ちで空を見上げる、子供ながらに「何かを捨てなければ何かを得られない」との結末を想起させるイラストが隣に添えられていた。実際には音楽の授業で習って、曲(特に歌詞)を気に入った彼が薦め――そうじゃない、そんな経緯はどうでもいい。
     少年の胸の内にその歌が響き、何かを伝え、小さな心に小さな、いや彼にとっては大きな勇気と目覚めと、何より決意をもたらしたのだ。彼に教わりたての頃、旧居であるアパートから自宅への帰り道をゆっくり歩きながら、二番の内容をよく知らずにいた僕は一番の歌詞ばかりを飽くこともなく暗誦した。
     そして別れのこの時、再び口をついて出る。今度はメロディーに乗せて。
     遠い帰りの道のりに何度目の繰り返しとなっただろう。次第に涙で滲んでぼやけた視界の中、それでも長い坂をひたすらに下って行った。もう振り返っても何も見えない。二度目の訪問は多分……。さようなら『友だち』




    (※1)引用歌
     『勇気一つを友として』
    歌詞:片岡輝
    作曲:越部信義





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    エッセイ1話まとめ(物語構成)【11】BONBON!






    (全7216字)〔1〕/〔4〕
     行きつけの店――なんとも甘美な響きである。八百屋の主人と天気についての話から始まり、最近の景気云々といった頑是[ガンゼ]ない流れ、隣のお茶屋ではいつも暇そうにしている若旦那と趣味の渓流釣りについてひと談義、綺麗な白髪紳士のマスターがいる喫茶店ではほどよい距離を保っての穏やかな笑みの混じった視線が交わされる。
     別に、昔ながらの商店街ばかりにしかそういったことがないわけではない。時々夕方過ぎにふらりと立ち寄る馴染みのゲーム屋などでも同様だ。年代の近い店長は似たようなゲーム遍歴があり、最近発売されたタイトルについての彼なりのレビューなどを聞いてみるのもなかなかに興味深い。栄枯盛衰[エイコセイスイ]を繰り返す多種多様なゲームのハードが今後どうなっていくのかなど、仕入れや販売された数など直に接している人間の意見はそれなりに参考にもなる。
     帰り道では古びた駅ビルの一隅、ひっそり奥まった場所で営業をしている薄汚れた外観のラーメン屋の暖簾をくぐれば、こちらの顔を見るなり味噌ラーメンでいいんでしょ? その一言がなんとも小っ恥ずかしくもあり、と同時に心地良いものでもある。

     二十歳を過ぎた頃には大手[オオデ]を振って外で酒が飲めるということで、随分様々な店を見て廻った。とは言っても、どれも個人経営の小じんまりした居酒屋か、どの街でも同じような外観をしたチェーン店のどちらかだった。スナックやらキャバクラだったりは料金も高く、あくまでも想像だがおそらくつまみがまずいのだろう。また近くに女性がいては、時間を掛け落ち着いて酒を飲みながら友人同士で話をするのには適していない。
     そもそも私は水商売をしている女性全般が苦手で、男に対してしなを作ってみせる積極的な態度を見せたかと思えば、艱難辛苦[カンナンシンク]を乗り越えてきた怒涛[ドトウ]の如きと言い巻いている人生を背景に、突然年下の男に対して悟った風な口調で処世術やら、これからの身の振り方についてそろそろ真剣に考えたほうがいいなどを語られると、なんとも辟易[ヘキエキ]とさせられるのだった。
    『あんたのためなんだから』、などと来るともう聴いていられない。言いたい気持ちはまあ分かるのだが。こういった傾向は当然ある程度年齢を重ねた女性に多いが、若い子の中にも酒が入ると説教節というか、一種の絡み酒なったりするのもいるにはいる。
     なぜそれらの店に行ったことがないのに分かるのかと言えば、元水商売だったという人と一緒に仕事をした期間が長くあったからだ。別にこちらがどうこう評価しはしないが本人は凋落したと思っているのか、どうにも過去を話したがらない人で少しばかり謎めいた雰囲気を感じさせつつも、突然にあの頃を懐かしんで聞いてもいないのに様々なエピソードを口にしだすこともままあるのだった。
     そんなときの彼女たちの表情はまさに七色変化さながらであり、何やら興味深くもあるし少しばかり怖くもある。
     いわゆる一般的にイメージされているようなキャバクラだったらそんなことはなく、楽しく何も考えずに馬鹿騒ぎ出来るのではないかと思われるかもしれない。しかし正直に言って、私は若い女の子の軽薄(良く言えば軽やか、さらに良く言えば天真爛漫)なノリには全くついていけないし、無理に付き合いたくもない。件[クダン]の場面などを友人から聞いたり、TVなどで目にすることがあっても、一切何も惹かれるものがないのだ。

     チェーン店居酒屋と言えば誰でもがいくつかの似通[ニカヨ]った意匠の看板をまずは浮かべる。そして全国的にかどうか分からないが、各人が利用した限りではグループごとにほとんど共通するメニュー、また人によっては鬱陶しいとすら感じるマニュアル化した過剰な接客スタイルが想像されるだろう。
     確かに、最大公約数的戦略を無難にこなすことに終始しているといった批判は一方で合ってはいても、しかし店々によって当然店員は異なるし、場所が違えば客層も異なってくる。客の感じが違うのは話される内容にも現れ、地域性や周辺にある会社(または学校)から訪れる彼らなのだから、それによっての変化だ。
     店同士の異なる点としてまず、間取りなど一見どうでもいいような部分も、意外と人の心理に与える快不快、あるいは好悪の影響は無視出来るものでもない。なんというか雰囲気それ自体はやはり経年のうちに独特に作り上げられていき、微妙な差であったとしても二つと同じものはない。





    〔2〕/〔4〕
     K尾の高校時代の友人が我ら野球チームに中途加入をすることになり、いつからか一緒に酒の席を囲むようになった。
     それを期にちょくちょく遊ぶ機会が出来、この店をいたく気に入った、と普段の温厚で控えめな姿からは想像されない、酒の力を借りながらも余程の饒舌[ジョウゼツ]を交えて唸[ウナ]ったので、となれば私も少し良いことをした気分になる。同時に新しい友人の希望に可能な限り沿うよう(他の皆にも異論は無い)、彼を含め何人かで集まって酒を飲むというときには、以降必ずと言っていいほどそこを指定することになった。
     彼は子供の頃から何かの球技に打ち込んできたのだとか、実際背も高く筋肉質の身体をしている容れ物にふさわしく、まさに鯨飲といった感じで浴びるように腹に流し込むのだ。

     店の奥はテーブル席が二卓あり、開いているときはそのどちらかに腰を落ち着けるのがお決まりとなっていた。入り口左側にはカウンターがあり席が五つくらい、反対には奥と同じサイズのテーブルがやはり二卓。内装の色合いは基本的に朱色と言ったらいいだろうか。最初のほうにキャバクラやスナックはツマミが美味くはないだろうと書いたが、この店もはっきり言って大したものはなかった。
     チェーン店の居酒屋のほうがよほど色々と取り揃えていることは確かで、ただこの味だけは絶対にここでしか食べられないというものが一つだけある。それはスジ煮込みだ。店の前に面したところに大鍋を乗せたコンロを据え、いつ店の前を通りかかっても常に牛スジを煮込み続けていた。いくらか湯気を上げてくつくつと、油やら濃茶色をした煮汁やらがゆっくりと対流しながら、時々はすでに柔らかく仕上がったであろう肉が姿をのぞかせる。
     こんにゃくや大根などは一切入っていない、プレーンというかシンプルとでも表現されていい随分と徹底した作りで、注文して目の前に出されるときにはその上に刻んだ長ネギと、煮汁の中を泳いでいた柔らかい梅干しだけがトッピングされてくる。
     肉が口の中でトロけるように、それでいて芯に近い部分にいくらか残されたスジをプツリと噛み切る弾力が歯に伝わる、食感のコントラストの差がなんとも言えないのだ。梅干しと長ネギは、心持ち主張の強いこってりした油を上手い具合に中和する。一緒に来ていた連中の皆が皆、口の端をてらてらと濃い目の脂で光らせ、これが一番好きだと口を揃えた。
     スジ煮込み自体はさほど珍しいものではなくとも、後年になって他の店で同じ品物を注文すると常に期待とは違った味が私の舌を見事に寂しがらせ、油と塩味の足りないその肉を何度も噛み締めるたび郷愁に似た感情を抱かせるのだった。

     あるときK尾とR立、私の三人で飲んでいた。普段通りに落ち着いたペースで各自杯を開けていったのだったが、席について二時間が過ぎる頃になるとキープしていた眞露が足りなくなり、新たに購入したものもすでに空になりかけている模様。なくなる前にさらに一本追加をし、そちらもテーブルに置いてもらうことにした。小柄な板前に借りたマジックで名前を書きつつ、氷容れとペットボトルのままの烏龍茶それと二、三のツマミを――。
     何段か積み上げては、時間の経過とともに気づけばいくらかが取り去られていくようなゆったりとしたものであった、とは言っても、皆も長時間のアルコール摂取の繰り返しにより、さすがに酔いの下限は相当に高まっていた。
     R立は頭をだらりと壁に凭[モタ]れ掛けさせ、傍目[ハタメ]から見るに十数分前から同じことを繰り返しているとしか見えない呈で携帯電話をいつまでもいじり続けている。
     時々ひゃっひゃとか、ふふっなどと声を漏らすところを窺うと、メールでも見ているのか。ただ、ここ数時間は誰の電話も沈黙し続けていたはずだったから、おそらく昔の受信履歴でも漁っているのかもしれない。K尾はテーブルに突っ伏してしまい、目を閉じて口を半開きにしているという按配[アンバイ]。横腹をつついてみると「ああ」とか「ちょっと、……待て」などと反応するが、もうダメになってしまったと見て間違いなさそうだ。





    (残3727字)〔3〕/〔4〕
     私はトイレに立ち上がった途端に後ろへ向かってふらついてしまい、両手を中空に漂わせ何か掴む物はないかと足掻くも、どうやら無駄だったらしい。奥の半個室を仕切っている壁とそれを支えている柱に左肩をしたたかに打ち付けた。
     なにか尖った部分が深く肩に食い込んだ有様で、一瞬痛みのあまりに素っ頓狂[スットンキョウ]な声を挙げそうになり、それを堪[コラ]えの顔を上げてからカウンターのほうに向き直ると、体当りした音がかなり大きなものだったことに周囲の視線で気がつかされてしまうという、酔漢[スイカン]のとんだ恥晒しっぷり。さらに顔を赤くいくらか青くもしつつ、うつむき右手を顔の前で衝立[ツイタテ]にして他の客に見られないようにしながらトイレの前へ向かった。

     真っ直ぐにしておくことが難しく、どうにも身体が揺れてしまい数秒ごとに左右と壁に手をつかないといけない。床を汚してしまいながらもなんとか用を足すと、肩やら腕やらをあちこちにぶつけるのも厭[イト]わず、二人のもとにとりあえず戻ることにする。テーブル席の前ではいつの間にか目が醒めたらしいK尾は、いつからか朦朧[モウロウ]としているR立を肩に抱えて待っていた。
     あのさ、「もう、あれ、あれだ……あの、一旦出て、出てからどうしようかさ、考え、よ」私は舌が回らなくなっていることに気がつき、それでも目の前のへべれけよかはマシだなどわずかな頼りない最後の自尊心に凭れ掛かり、二人を何とかして外にだして酔いを覚まさせなければ、ぅうん? っあぁ、そう、しようかとおもって、ぁあそだよな、おれも、おぉそろそろかなって、そそそ、ろそろでたほうが、いい、い……かな。
     K尾とはなんとか意思の疎通を図れるようだったが、まともに言葉が浮かんでこない状態で思考は途切れ々々で訥々とし、その合間にはふっと目を閉じて身体を頼りなくふらつかせた。

     目の前の酔っぱらいの意識がまだ保たれているうちに店を出なければいけないと、少しばかり責任感を奮い立たせては、無理矢理に素面状態へ近づけなければならんと自らを騙し々々導く。今にも肩に掛けた腕がずり落ちて後ろにでも倒れ込みそうなR立を、こんな状態の彼では到底支え切れるはずがないのだ。……もうじき奴も、酔いの暗黒面に呑み込まれてしまうだろう。
    「あの、すいま、せ……ぁああの、すいませ、会計、おあいそを」
     カウンターに向かって声を絞り出すと、振り向いた小柄な板前は少しだけ怪訝[ケゲン]な顔をしてみせたような気がして、すぐに普段の力ない笑顔に戻ると『今日はいっぱい呑んだね』と言った「らしい」。こんな状態の彼らから回収出来るのかと不安になってしまう貧乏性分であっても、それにしたってレジ前でもたついているのは恥ずかしいのでまとめて払うことにした。「大丈夫? ちょっと呑み過ぎかもね」背中に受けたその言葉が誰の口から発せられたものか、憶えていない。

     数日後例のガタイの良い友人も含め四人で集まり、あの日のことについて話した。失敗しただの俺は体調が悪かったし酒が悪かったなんて言い出すのもいながらも、その日いなかった彼を除き各々、いくぶんの反省をしているようだった。私も含めて。
     話は反省会だけで終わらず、ふざけ半分の笑顔を口元へ忘れず含めつつも、いつのまにか内容は剣呑なものに傾いていった。
     K尾R立どちらが言い出したか忘れたが、『今日はいっぱい呑んだね』と台詞をおじさんの喋り方で真似したあと、絶対に会計が間違っていると文句をのたまった。私はかなりの貧乏性ゆえか、メニューを注文するたびにある程度概算を出していたので、加えて新しく購入したボトル二本分を含めると大体提示された金額で合っていたはずなのだが。
     その主張をする根拠としては、最近店の経営が芳しくないから、だとか。徐々に減っていく収入を少しでも補填[ホテン]するためという無茶苦茶な理由、有体に言えばボッタクったのだと友人は不信の目を向けているのだ。そういえば奥のテーブルにはあの時間帯に一度も客は来なかったことは確かで、カウンター席も埋まってはいなかった。しかし、いくら我々がひどく酔っているように見えたとしても、上手く金を誤魔化せるかどうかは分からないし、バレたときのことを考えればそんな真似は出来ないだろう。

     ふと「あの店の人達、ホントにそんなことするかな」の言葉をぼそりと、しかし何かの確信に近いものを抱いているかのように口にした。
     当日そこにいなかった新しい友人である彼は、周囲から重ねられるたび段々と激しさを増していくかに装う声へしばらくは黙って耳を傾けていた。まだまだ皆の輪の中にまでしっかり馴染み切れていないと感じている者としての、遠慮がちの軽い同意を示していると見えなくもない。その姿であったことはあった。
     しかしどうしても支払いをした私自身に不確かな記憶しかないため、こちらの弁護よりの気分を心許[モト]なくさせつつあったのを後押ししたし、残り二人の口を多少重くさせるだけの効果はあったのだった。

     二、三年前から、決して古い顔ではなくとも私たちは一週間に一二回くらいは通っていて、一見さんではないのだ。仮に上手く誤魔化せたとして客が何も言って来なかったとしても、会計のときにでもおかしな感じを与えてしまえば、それが実際にどうだったかは別に二度と店を利用しなくなるのでは。常連が来なくなることの減収のほうが、中、いや短期的に見ても言うまでもなく大きいはずだ。ボッタクリが成功したとしてもたかだか数千円を余分にレジ(もしくはフトコロ)に入れるだけ、次にまた利用すれば一万円近くはそこに落とすのだから。





    〔4〕/〔4〕
     結局店を訪れる頻度はいくらか減ったにしろ、今までと同じような感覚で通った。店員の対応も変わりなく、不明瞭と多少でも疑らせる会計は一回もなかった。やはり勘違いだったと思いたいしそう信じている。
     ただ、経営が上手くいっていないのではないかとの予想は間違ってなかったらしく、数カ月後には暖簾が取り外され、いつもならば夜になると表の通りまでを照らす明かりは落とされていた。ちょっと気になってガラス戸の格子[コウシ]の隙間から薄暗い店内を覗いてみたところ、テーブルは撤去され閑散としていた。父に経営者のおばさんや板前の男性はどこに行ったのか聴くと、なんとなく答えは予想していたがやはり、分からないなと意外にそっけない一言。

     ここ最近では外で酒を飲む機会はほとんどなくなった。私の財布は常に緊縮財政を強いられているデフォルト寸前の状態でもあり、そもそも、一人で居酒屋に行くことなど面白くもない、というか気が乗らないのだ。
     世間の狭さ、世情[セジョウ]の面倒を身を以て知る大人の頃合いにでもなったら、ときに一人酒も結構じゃないかと言う人もいるかもしれない。まあ理解出来ないわけではないのだが、その場合は行きつけの店が必要なのだとどうしても思ってしまう。さすがにチェーン店に一人で行って、あの妙に明るく騒がしい雰囲気の中でしんみりやるのは無理がある。
     つまり、結局は行きつけが無くなったのだから仕方がない。行き当たりばったりで個人経営の飲み屋の暖簾をくぐっても自分の肌に合うかどうか、懐を痛めてまでして冒険をする気にもなれないのだ。実際には以前に何回か挑戦して、二度とその敷居を跨ぐことはないとの誓いを立てたほうが圧倒的だったという、連戦連敗続きのさめざめとした現実ばかりだった。

     結局部屋で飲む酒は安上がりで、無駄に飲み過ぎることも便器に向かって涙混じりに鼻水を垂らして嗚咽を挙げることもない。そして、飽きもせず紡がれる代わり映えのしない昔語りにスルメを噛みながら適当に頷いていたはずが、時々はこれからどう生きて行くつもりかなどと言葉尻[コトバジリ]は落ち着いた調子でありながら、寸前までの軽々しい酔いはどこへやらと、素面か完全に据[スワ]わっているが故のものか、判断し難い視線は目の前のボンクラが如き私に真っ直ぐ注がれ――そんなじわりとした一撃を唐突に喰らわされることもない。
     やんぬるかな、口元へ持っていったジョッキが迷いを現すかに一旦動きを止める。数秒後には答えの代わりに何やら唸ってみせながら、アルコールで口の端を汚して曖昧に笑ってみせては、少しばかりの自己嫌悪と根拠のない決意。

     しっくりした居心地の場所を失い、現在思い返してみればあの時期から彼らとの関係は知らず知らず薄まっていった。それこそ私にあっては人生のいちいちの場面のつまらない要請と、逃れがたい惰性を重ねる年々[トシドシ]のうちに気づかぬほどに紛れ、あるいは溶けて。

     人生では何もかも失われる。死ねば全てが失われる。いや、冷凍保存のような生きた軌跡がどこかに残るのだろうか。他人のことは分からないが、やはり、私はそんなものに当てはまる価値は持ち合わせていない、としか思わない。
     ――まずは、だけどまず一杯、弱さと醜さを忘れ、過ぎ去った日々と日々の囚われを頭から一時でも追い遣るためにも、あぁ、だからさ、そのために、……いやとりあえず酒が呑みたいんだ。そう、あと美味いツマミが二品、あの一皿でもあったら。




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    エッセイ(物語構成)【12】僕らはイカロス〜3(了)

    (2332字)
     引越しをすると知ったのは小学校四年生のいつのことだったか。もう学校に来なくなった彼は、その日僕を自宅まで迎えに来て新築寸前の家に招いてくれた。つまり、個人的なお披露目を受ける運びとなったのだ。もうじき引き払う予定のアパートも結構遠いとは感じていたが、新居はそこから歩いてもさらに数十分の距離があり、学区が異なるために転校することになるのだという。引越し先までの道のりの長さは子供の身の丈としては最も単純に、実に冷徹なほどの現実の重みとしていやがうえにも知らしめさせた。

     綺麗な家だった。光がふんだんに取り込める天窓のついた、家族の集まる広いスペースがまずは目につく。
     少し現在の僕が補足する。機能的な造りの明るく使いやすそうなキッチン、伸縮式のはしごを登った先にある、子供が走り回れるくらいの高さと奥行きのある天井収納を始め、覗かせてもらった納戸も物を置くだけではもったいないくらいの充分過ぎる広さだ。周囲を囲む形の各部屋から中心のLDKへスムーズに、のみならず洗面所やバルコニーへは個室からも移動可能な複路になっていて、移動のパターンが時間帯や多少のプライバシー条件で変化した際にも、快適に利用が出来るようになっている。
     つまるところ住人の様々な利便性(個人的、家族集団的側面両者で)や生活動線を考えた上での設計なのだろう。
     僕は口を半分開け放ったまま、人の顔さえ反射しそうなほどに綺麗なつやのあるフローリングの床やら、ちょうど昼時の光が気持ちよく降り注ぐ天窓をただ感心と驚きに包まれ眺めていた。そして、いくらか照れくさそうでもあり誇らしげにも見える手に引っ張られ、最後に彼の城へ――子供部屋が用意されていることは言うまでも無い。
     膝をつき部屋の片隅で後片付けをしていた彼の母親が立ち上がり、ひと通り内覧を終えリビングへ戻った僕らを迎えるようエプロンを外した。同時に額の汗を袖口で軽く拭い、やや視線を合わせずにいた顔が向き直ると、幾分の疲れとそれ以上の充実感に満ちた柔らかい笑顔となり、ケーキがあるからと二人を促した。子供たちが椅子に腰を下ろすのを横目で確認してから、自分は少し冷めてしまった薬罐にもう一度火をかけた。中央は白い磁器製のタイルか何かだったか、二回り大きな分厚いガラスの天板が乗せられた、綺麗で頑丈そうで、高価そうな真新しいテーブル。

     ○○君また遊びに来てね。そうだ、夏休みになったら泊まりに来いよ。僕は声を掛けられる度に相手の顔を見直し、両親のことやら彼から話される以前遊んだ時の思い出などに丁寧に答えた。会話が一旦途切れ空白が開くと新しい学校へ転入するための準備について親子で話し始め、僕はなんとなくホッとするとケーキを包むビニールについたクリームをフォークで削ぎ何度か口に運んだが、ふとその姿が誰かに見られている気がして落ち着かなくなり、ビニールをさっさと畳んでしまった。すでに微温くなっていた最後一口の紅茶を、音を立てずに飲み込む。

     じゃあそろそろ時間も時間だから、ということになった。螺旋状の階段を彼に続いて降りていると、踊り場辺りで何故か突然自分の家のことが胸に浮かんできた。トタンの古くみすぼらしい外見をしているその姿は、綺麗な新居を目の当たりにしている僕に対して妙に悔しさや惨めさの込み上げる気分を与えた。自分の家の親もあんなに頑張って働いているのに、なんで……。少しだけ涙目になっていた。
     いま振り返ってみれば子供らしくもない、まるで嫉妬をする大人さながらの唐突なイメージの対比をもちだしてきたものだ。あの時の状況では優先順位の一見低そうな事柄に対して囚われているのが、可笑しく見えなくもない。ただ、とりとめのないようで案外気にすることであったりして、些細な物事について妙なほどに反応を示す心理の不安定さが子供にはあったりもする。
     
     いよいよ別れの時。またいつでも遊びに来てくれよ、R地は新居から出て最初に差し掛かる坂の頂上まで数十メートルを見送り、笑顔で二度三度と頷き大きく手を振ってくれた。それでも、もうきっと無理で、こんな遠くまで来れないと感じていた。坂の入り組んだ道は覚えられないし、それに違う学校に通う人間と遊ぶといった行為が本当は間違っていることなのかもしれないと、どうにもその怖さが拭えず――。
     僕には分からない。本当に、……本当に何も分からない。

    (※1)
    昔ギリシャのイカロスは
    蝋で固めた鳥の羽
    両手に持って飛び立った
    雲より高くまだ遠く
    勇気一つを友にして
     
     R地に教わった歌だった。この文章を書いている最中に思い出したことだが、件の曲の譜面はおそらく教科書に載っていた。確か、蝋の翼を持ったイカロスが悲壮な面持ちで空を見上げる、子供ながらに「何かを捨てなければ何かを得られない」との結末を想起させるイラストが隣に添えられていた。実際には音楽の授業で習って、曲(特に歌詞)を気に入った彼が薦め――そうじゃない、そんな経緯はどうでもいい。
     少年の胸の内にその歌が響き、何かを伝え、小さな心に小さな、いや彼にとっては大きな勇気と目覚めと、何より決意をもたらしたのだ。彼に教わりたての頃、旧居であるアパートから自宅への帰り道をゆっくり歩きながら、二番の内容をよく知らずにいた僕は一番の歌詞ばかりを飽くこともなく暗誦した。
     そして別れのこの時、再び口をついて出る。今度はメロディーに乗せて。
     遠い帰りの道のりに何度目の繰り返しとなっただろう。次第に涙で滲んでぼやけた視界の中、それでも長い坂をひたすらに下って行った。もう振り返っても何も見えない。二度目の訪問は多分……。さようなら『友だち』




    (※1)引用歌
     『勇気一つを友として』
    歌詞:片岡輝
    作曲:越部信義

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    エッセイ(物語構成)【12】僕らはイカロス〜2






    (1520字)
     彼の家は坂の上にあるという。普段から外遊びなどしない僕は体力もあまりなかったので、随分と息を切らしながらこんな急な道を毎日登り降りするのは本当に大変だろうと喘いだ。
     考えも碌にまとまらないままにほとんどうつむきながら、時々空を仰いて大きく息を吐き出しつつ。彼は少し先を歩き指先で方向を指示し、顔を上げて確認をした僕は再び地面に視線を落とす。霞んだ遥か彼方にしか見えもしない行き先をこの目に捉え続けていることはどうにも耐えられず、下を向いて自分の足が間違い無く動いているだけを頼りにするしかないのだった。
     気がつけば、彼の家がすぐそこに見える曲がり角にまでたどり着いていた。ゆっくりと周囲を見渡しながら初めて目にした景色を確認する。R地は数メートル先で、まるで待ちわびたかの笑顔で僕を手招きしていた。
     大きな駐車場に面したアパートだった。戸数に対しては容量が多く、簡単な車止めがあるだけの鉄柵すら無い駐車場だったので、その辺り一面の地主が後から住居を一棟建てることにしたのかもしれない。順序はよく分からないが。

     内部は長方形をしていて、手前にダイニングキッチンがありさらに二部屋が続いている間取りだったと記憶している。玄関を開けると早速真ん中の部屋に案内された。
     しかし七割がた開け放たれた襖の先には寝そべって主人の帰りを待つ中型犬、シェットランドシープドッグの姿。僕は小学生当時犬を苦手としていて、中に入れずに躊躇していたこちらの素振りを見たR地が気を利かせ、一番奥の部屋に移動してくれたのだ。
     飼い主からしたらどうということもないのだろうが、その手馴れている一連の動作に感心したものだった。あんなに大きくて凶暴そうな(犬が怖い子供にはそう見えた)犬に言うことを利かせ声も一切上げさせず、全く抵抗する様子もなく従わせ隣室に移らせるなど信じられないと。
     TVを少しの間眺めていたがこちらが手持ち無沙汰にしていると感じたのか、しばらくしてから二人でゲームをやることになった。
     僕らの世代辺りからはありがちな光景として、子供同士で互いの家に呼び合った時にはファミコンを一緒にやる(当然ファミコンがあればだが、場合によってはゲーム機本体を友達の家にまで持って行く子もいた)、いわば新たな遊びのスタイルというものが作り出されて急速に広がり、結構な定番と言ってもいいくらいのものになったのではないかと思う。もちろん外遊びのほうが好きな子もいたし、のちに彼と二人で少し遠い地域にまで探検をしに行ったことも何回かあった。そういえば子供なりの無邪気なイタズラをして遊んだ、僕にしては初めてとなる経験をしたことも。

     幾時間かそれまでの全てを忘れゲームに熱中していたところへ、彼の母親が帰ってくると一度だけこちらに顔を見せ、すぐ忙しそうに食事の支度を始めた。R地は一見すると少しタレ気味の甘い目をした優男風だったが、較べると母親はいくらかはっきりした目鼻立ちをしていた。二、三言葉を交わしただけに過ぎなかったものの、口数は多くなく雰囲気は落ち着いていても、それはある種の大人の女性が持っている、子供を萎縮させる冷たさから現れたものではなかった。
     つまり、のちに会話をした時の表情からしてもそうで、時々パッと明るい表情をすることもある美しい人だったなと、いま輪郭は朧気であっても懐かしくある。
     帰りは自宅と彼の家の中間地点くらいまで送ってもらった。僕は見知らぬ遠くの街に出かけ少しだけ不思議な体験をした気分でいて、そしてまた呼ばれればいいなと帰り来た道を振り返ってみるさなかに微かな期待が胸に産まれていた。坂の上にいる彼の姿がいまは見えずとも、変わらず手を振っていてくれそうな気がした。




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