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    日記帳から2003-2004を通しで【5】元女王






    (全11324字)〈1〉/〈6〉
     特に書くことが……いや、書くことはいくらかある。重要な問題ならばいくらかはあるし、そうでない問題なら数え切れないほどある。頭が痛い。酒の種類によっては私はすぐに酔ってしまうが、アルコール度数の点では勝る(高い)ウィスキーやブランデーの類は、胃の中を熱くさせ口腔から下の感覚を鈍麻させるだけだ。ダブルで5杯飲んでも、せいぜい頭を軽く押さえられている程度の感覚にしかならない。
     コニャックなどの強い酒を口にした時に舌が膨らむような感覚があると、某作家のどこかに書いた文章を以前読んだ気がするが、あの喩えは実に的を射ている。

    『〇〇(競技名、以下競技Xとする)選手のヌード騒動について、またそれに対する協会の抗議に思う』
    「彼女は女王(いわゆる)、チャンピオンであったことは無く――」これは事実か虚偽であるかは問えば良い。ある意味では非常に簡単に決着のつく問題だろう。しかし次の言葉が気になる「これら裸体を写すことは神聖なスポーツを冒涜していると考えられる――」という協会側の見解(意見)についてだ。
     これについて私はY先生とは違った意見を持つことになる。彼は女性の前歴が何であれヌードになるのは構わないし、そんなのは個人の自由だという。だったら元OLが脱いだら抗議されるか? 元警察官が脱いだら抗議されるか? という疑問を呈していた。元警察官は抗議される可能性はまああるだろうかと付け加えていたが、元OLであっても世間一般に知られる大企業の実名を出せば、抗議される可能性はかなり高いだろう。
     やはり、これは物事の本質をあきらかに見誤っているのだ。つまり元警察官はどういった状態であれ職を晒してヌードになれば確かに問題になるが、そもそもスポーツ選手ではない、彼女らいわゆるOLや例えば題材として以前は多く取り上げられたスチュワーデス、看護婦などが所属組織の分かる形でヌードを晒す場合でも、「神聖さ」云々とは別の問題を孕んでいるしそれを指摘されることはある。

    「ちょっと、例えば、以前内部で嫌なことがあったとして、彼女は組織に恥をかかせるような意図があったかもね」というY先生の発言に関して。
     まずそれらの行為は単純に、一個人によって所属組織全体へ好奇の視線が向けられる迷惑行為であるだけでなく、具体的に一定以上の被害があるか想定される場合には、名誉毀損や業務妨害等で訴えられる可能性も有しているというのを忘れてはならない。少なくとも人々は「あの会社のOLが、スチュワーデスが――」という目で見るのだし、そう感じるように掲載者側が仕向けているのだから当然だ。
     彼女らが後の人生を自由に生きるのはもちろん人間としての当然の権利、欲求である。とはいえ、なんらかの思うところがあったとしようと、昔世話になった(働いていた)組織に対し一方的・不意打ち的に、釣り合いの取れない不利益をもたらす行為はするべきではない。
     余程のことに対する報復行為ではあるまいに。そもそも自ら望んだ場合以外で女性が公衆に向けての裸を写すなど、その苦痛を考えれば報復にしろあてつけにしろほとんど考えられない。今回のようなものは、大体が扇情的な記事が売りの写真週刊誌でヌードになる時点で小遣い稼ぎが目的の大半なのはまず確かだろう。

    追記〈1〉2004/10/03
     自らがまず甚大な被害を受けたとの確たる理由も、応報行為への正当性を多少でも考慮する事実証拠等々何もなく――到底看過出来ない被害に対する賠償は当然、仮に報復的なものであるならばなおのこと冷静に司法の場で主張するべきであるし――、つまり法の場が客観的に情状酌量を認めていない。また、世間が同情を示してくる雰囲気もない程度の問題であるなら、例え本人にとってはどれほど個人的に憎んでいる相手でも、そのようなことはするべきではない。
     もし辞めた後でしか口にすることの出来ない内容で、しかも自らのこうむった不利益が非常に大きく、あるいは社会全体に及ぶ類の悪影響があるとする。そういったケースなら勇気を持って告発することが望まれるが。言うまでもなくヌードが対抗手段となるとは、普通は考えないだろう。 追記〈1〉了
     
    追記〈2〉2013/10/05
     また「彼女たちにどう反応するかは別にして、一般論としては開け放たれた性意識も含めた現代人の感覚というものを元職場達はどう捉えているのかな? さすがに今回話題にしている事柄はかなりセンシティブではあるけど、やっぱり、あまりにも鈍感というか人間を知らな過ぎ」とのY先生の発言を受け、以下私が思ったところ。
     およそ企業組織体に対して求める自体が無意味で、あるいは勤め人の姿が彼女(彼)らの全てであるなどとはさすがに考えていなくとも、知りようのない個人の個人的な側面はどうでもいいとしているだろう。
     通常如何なる企業や団体の側にも確かに、入社試験の際に行われる面談やら心理測定テスト等はあるにはある。しかし得られる答え以上、さらに細に入ったレベルと回数で手間を掛けても得られる収穫は少なく、結果を具体的な仕事やその他団体での働きにフィードバックさせることが可能でないならば、コストをかける意味もない。
     終始一貫、組織は目的に沿って最も効率よく運営され利益(成果)を得ることが全てであって、所属する各人はシステムの中で上手く立ち回る能力のみが評価の対象となる。個人的生活の中でどのような感覚(性的欲求を含む)を持って生きているかなど、よほどの問題として外部内部に限らず表面化するまでは本来は関係の無い問題だ。
     つまり、彼らのある意味人間に無関心な体質に文句を言うのは勝手だが、個人の自由と絡む問題でも当然あり、それが社会にもたらされる弊害となって現れ、現実的に解決されなければならない、または外側から強く要請される問題でない限りは、組織はあり方を変えはしないものだ。 追記〈2〉了





    〈2〉/〈6〉
     ところで「神聖な――」という点について、こういう言い方自体が時代錯誤的な意味のないものなのだと皆が考えていると、私は思っている。Y先生もトピックの取り上げ方からして同様に、まず上記の文言をかなり批判的に捉えているのだろう。
     しかしそれらが作り出されたイメージに過ぎなくとも、男性で言えば高校球児は甲子園を死に物狂いで目指すし、サッカー青年は国立競技場でのゴールを、ラガーマンは花園でのトライを夢見る。女性であるならば恋愛を忘れ、本来の柔らかい肉体を改造し、陸上や格闘技など一部の激しい競技では月の生理を失うほどのある種代償を支払い、それでも華やかな舞台に上がることを切望するというのが現実だ。
     彼、彼女らはひょっとしたら幼い頃から――当時はどの程度意識的に取り組んでいたかは分からないが――、青年・成人期に至れば貴重な時間を注ぎ込む鍛錬を自ら求めるのだ。

     これがイメージ操作的なもので、特に男子の場合傾向が強いとはいえ、まずは性別問わず意図的に集団生活の中で個を消すことや倫理観を強制的に叩き込まれる、一種の軍隊式なスポーツ教育だという指摘も分からなくはない。本来個性を伸ばし、各自の持ち得る様々な特長を結集させる過程からよりよい成果を得ることを目的としている(個人競技でも仲間同士での切磋琢磨、競い合いが大切)はずのところ、未だに旧態然、硬直化した一方通行のシステムは厳に残っている。
     個人の罪を全体の懲罰であるとする考えも集団の中では良く見られ、社会でも延長線上の発想で人間を支配するやり方はそれなりに浸透(支持)している。が、ただし現代に至っては学校生活や、特に従前までは信頼し採用していた企業の人事管理・教育の側へ(からも)弊害が指摘されるケースも少なくない。
     最も批判の矛先を向けやすい部分として、これらが確かに色々と問題は含んでいることは事実としてまず捉えなければならない時期にあるのかもしれない。ただ現在においてはスポーツに携わる人達、プレイヤーだけでなくコーチも含めた育成・能力開発や教育のあり方が見直されているといわれていようと、過渡的なシステムの一部として最善とはもちろん単純に首肯は出来なくとも、教育(連帯的責任の良好なあり方・仲間意識の確立・子供に対するしつけ・情操)という点からすると全てを否定しきるのはやはり早計と言えないだろうか。

     あれら週刊誌の記事自体を私がどう感じるかについては、はっきり低劣で俗悪なくだらない読み物であるとすぐさま断じることに、決して躊躇を覚えない。ただ、こういったブランド化された性商品とでも呼べるものが、現代の性産業の関心の核の一つである事実は否定出来ない。
     イメクラやお宝もその一つである。お宝とは対象のネームバリューやら認知度、社会的立場がかなり明確な価値の尺度である。例えばある人物(主にタレントや有名人)は非常に強い趣向が現れやすい対象であったとしても、特段に性的イメージで要求する者が少数であるならばお宝市場における価値とは必ずしも相容れないのだ。当然だが、制作費をそれなりにかけ(芸術的と呼ばれる作品なら制作費は低く抑えられていてもいい、と業界内だけでなく世間でも認知されている)有名監督に撮ってもらった映画等々、一般的に世間からも評価のあるメディア以外で脱ぐことに抵抗がないか、あるいはないかに見える場合は言うまでもなくお宝対象としての価値は低いだろう。

    「競技Xの女王の裸体」は、コスチュームや特定の職業に対しての性的嗜好を捉えたイメクラ的なものとお宝の中間か、よりいくらかお宝に傾いているかもしれないがそれは被写体の知名度による。
     広告の時点では彼女はオリンピック候補の「有名」な選手だと言われていたが、抗議の内容によるとどうやら違うらしいとの線が濃厚だとか。仮に嘘であったとすると、「競技X」や「競技Xのコスチューム」への記号に対する欲情というレベルしか機能しなくなる。結局はそうなってしまったとしても、これは雑誌当初の話題づくりに成功し「競技X」好き、「競技Xのコスチューム」好きの耳目を集めることが出来たのだ。「お宝」好きにはあまり価値のないものになってしまい、それでも予想外に協会が騒いでくれたおかげで、世間一般の人々の注目を集めるまでにも期せずしてなったのは、ありがちな話だが皮肉な結果である。





    〈3〉/〈6〉
    「競技Xの女王」は本物なのか偽者なのか。これは女王の定義にも発展させることもやろうと思えば出来る。利害の絡みあう人間同士が納得する結末とはどのようなものか、いずれの結果であるにせよ一旦もつれ始めれば時間のかかりそうなところである。
     つまり前段で真偽はすぐに決着がつくと書いたが、それは言ってみれば所属している組織の影響を無視出来ない程度に受け、普通に考えればまずあり得ないが未だに従わざるを得ない立場にいる状態(コーチや事務方を目指すならば、完全に競技Xの業界から干されればその道も断たれる……しかしもう遅いはず)か、もしくは問題にならないくらい「女王」の地位から経験、成績が遠い場合を想定している。前者では、虚偽であるならば自らでいずれ認めるしかないし、後者は一顧だにされず切って捨てられるということだ。

     仮に現在彼女が現役選手を引退している場合、さらに選手名簿から除名されているならばなおのこと、組織に従わせる力は強く働かない。首を縦に振りたくなければ「あなたは女王ではない」という宣告を受け入れないことも難しくないから、長引くかもしれないのだ。
    「彼女は女王(いわゆる)、チャンピオンであったことは無く――」授業でY先生の読み上げた週刊誌に掲載された協会側の発言である。これらは書かれた内容と一字一句確かにそのままなのか、加えて私の聞き違いや日記を書くにあたっての記憶違いもあり得るのは確かに認めた上で、この短い文からだけでは現在どういう立場にいるのかはっきりとは分からないということだ。

    「あったことは無く――」文面情報から読みとるに、協会側が嘘をついているとも思えないので今まで一度もチャンピオン(協会の定義するチャンピオンが正確には分からないが)にならなかったのはまず確実ではあろう。次に日本語として普通に理解すれば、まず多分、おそらくは現役ではないと伝えているのだろうが、私が記憶しているワンフレーズの文章には引退したかどうかが記されていない。とはいえいくらでも含意を察することは可能だし、記事の一文を目にした日本語話者の多くは同様に考えるであろうが、しかし確定的な判断は出来ないから、ここでは仮定にいくつかのケースについて考えてみたのだ。

     いささか実も蓋もない言い方になるかもしれないが、結局問題の女性も、自分が「女王」でないことは知っていたのではないかと思えてならない。競技Xの世界に身を置き、相応の才能と長年の努力で国内では常に上位の成績は出せるようになっていたのかもしれないが、しかしスポーツ界の「女王」とは一般的に言って女性のチャンピオンである。しかも才能のある新人が競技を始めて即その世界の頂点に上り詰めたとしても、または辛勝やギリギリの判定の末に勝利を掴み取ったとして仮に一度きりの短い期間の頂点であった場合、通常どちらも「女王」とは言われないのではないか。
    「女王」とは一定期間頂点にいるか、あるいは一度落ちた後も、かなり近い位置を長年キープし続けた相手に対してのみ使われる尊称のはず。
     私が件のヌードになった女性の名前を知らなかったということは、酷な言い方だがやはり一般的に知られているレベルの選手ではないのだ。
     競技Xがどれだけ華美・壮麗であろうと、あくまでも得点を競う競技である。ヌードの女性の外見がどれほど美しかったとしても――加えておそらく国内10位くらいの成績か、オリンピック強化選手くらいの実力はあったのかもしれないが――、それで「女王」などと呼ぶ(写真週刊誌にそういった倫理観を求めるのは不可能だから、本来当人が「呼ばれる」ことを是認する感覚が問題なのだ)ことは、純粋に実力がありながらヌードの女性よりも性的ピンナップの視線では容姿の劣る、と判断された競技者に対する侮辱でもあるといえないか。当然、彼女を純然たる競技者として見た上で、その姿に価値や意味を認め応援していたファンに対しても、背信を犯した行動である。加えて敗残者の感覚、つまり嘘や騙りの類に堕してしまう惨めさを本人も考えなかったはずはないだろう。





    〈4〉/〈6〉(残5502字)
     やはり金銭の誘惑に勝てなかったのか。しかし今では中高生でも知っているように、一度裸を見せてしまえば上、つまりTVショウビジネスに片足を踏み入れたかどうか程度のタレント候補、あるいは他の世界から転向を目指す人は芸能界の少なくとも王道的場所には働けない。タレントであっても一定以上の地位にいなかった場合、戻れないといった暗黙のルールがある。
     どうしても必然性のあった映画上の表現以外で、若いうちに裸を見せた場合は芸能界内のヒエラルキーは一気に下がる。次に待っているのは、裸か性行為に近いものが露骨に端的な性的興奮を表現する手段として使われる、そんなシーンの映ったVシネマが活躍の場所になる。
     果たしてどんどん活動の場は狭まり、TV視聴が芸能の世界の人間を目にするほとんどの機会である、いわゆる一般的な人々の視界からそのタレントは消えてしまったということになるだろう。彼女は何になりたかったのか。

     前置きが長くなった。ヌードになった時点で少なくない金額はもらえるかもしれないせよ、競技に戻るなどは120%無理であるし、さすがに復帰(一旦辞めたとして組織に籍があるならば、か)を期待しているほど本人が世間知らず、脳天気だとは想像しづらい。一体これからどうしていくのだろうか? AVにでも出演することになる?
     協会とどの程度の争いになったのかは知らないが、その動向如何ではAVであってもメイン路線のメジャーレーベルから出演作を販売するのは、難しいのではないかと推測する。例えば「競技X」や「女王」という単語を使ったら協会が損害賠償を求めるか、今以上に剣呑な状態になってしまえば活動を自粛しなければならなくなるかもしれないし、せっかく裸になった目論見も潰れてしまうことになる。これからどうするのか、そもそも何がしたかったのか。

     今回のヌード問題からは離れるが、最後に少しまとめてみたい。私は、世の中にはあまり多くの人に広がり過ぎないほうがいい情報があると思っている。知らない人間の近くにまで行って耳を傾けさせる必要のないものだ。誰が受け取るか事前に分からず、不特定多数の目に晒される状態で世間に垂れ流す行為は、本来は非常に危険であるし無責任な姿勢でもある。垂れ流す側のメディアの人間は自らの責任といったものをどのように考えているのか。
    「権利」を保障するためといささかヒステリックに宣言したその実、大上段に構えられた特に写真週刊誌などが口にする希釈された「権利」は、人間が根強く持っている俗的な欲求を満たすことが根本の原動力ともなっているのだ。

     諸問題における、一般的に望まれるメディアの姿勢として、まず核心部に直接関する場所から情報開示を求め、あるいは内部告発を促し、外部からは必要項目の調査・追及を行い報告がなされるはずが、次第に拡大する興味本位の卑俗な目的に遣われた上で一方には悪者叩きが流行していく。
     週刊誌を愛読しつつも、段々と問題の焦点がずれ対象がはっきりとしなくなり、嫉妬や漫然とした世の中への不満感からすり替わった義憤へと駆られているスクラムがっちりの読者がいて、大衆に伝える側も主張するほどの根拠もないと本当は分かっていながら、一応に正当化の文言として「権利」をしばしば口にする。結局は正面からまともに扱うというよりも劇化、扇情化による部数増を求めての営業戦略でしかない。
     その意味では両者の共犯関係が人のプライバシーを侵し、スキャンダルを大袈裟に騒ぎ立て、またはありもしない犯人を作り出すことに血道をあげるのである。
     多少なりと当初興味を掻き立てる狙いであっても、国家や地域に関わる政治・経済の問題、または重大な外交行事や世間の耳目を集める凶悪な犯罪の類といったものは、市民としての権利、社会の秩序安寧のためにも、確かに「権利」をどこまでも担保された上で知るべきを知らなければならない(または受け手との関係性によっては、その責任が発生する)といえるだろう、が。





    〈5〉/〈6〉
     世の中で本当に何が起きているかにほとんど関心がなく、政権与党・大企業の広報機関としてのマスメディアの報道にどっぷり浸かり、疑うことすらしない人々がいる。メディアから発せられる情報の読み取り力の低さへとりあえず注意喚起しつつ、彼らも前述したように、具体的にあるいは自分の生活へ直接関わってくる問題については、しっかりと知っておく必要はある。
     しかし、多少乱暴な物言いであることは覚悟しているが、それ以外の毒にこそなれ決して薬にはならない、つまり大衆を煽り昂ぶらせ俗物精神を養うだけの役割しかなく、またそれらが目的とされる類の記事(番組)など、敢えて目にする必要がない。
     俗物主義を自分たちの宿唖であるかのように公言している週刊誌は、世の中には不必要な情報は無く(その姿勢はある意味では評価出来るが……)、低俗・劣情を認め受け入れた上で世の中を論じるといったことが基本的なスタンスになっている。
    そんな彼らに対し私の言葉は空しく響くだけだろう。
     また、TVや新聞等マスメディアは自らが第四の権力として存在しなければならないとする厳然とした役割があるにも関わらず、権力への監視という仕事はしっかりと果たしているのだろうかと、疑いの目を向けざるを得ない。むしろ権力に取り込まれ、互いの既得権益を守り誘導することだけを目的とした報道協定がそこでは遺憾なく発揮されているのではないか。
     官庁に出入りを許された多くの馴れ合い記者クラブから、政府・与党に都合の良い情報のみが天下りされるのだ。あくまでも政府からメディアのフィルターを通しての報道であり、国民までの一方通行、上意下達[ジョウイカタツ(ジョウイカダツ)]のシステムである。それらはいってみればすでに検閲の行われた報道なのだ。

     メディア側からの積極的な操作の結果として、一億総「窃視」化社会が徐々に無批判・無警戒に人々に受け入れられてしまっている。現状受け入れ主義が自覚的かつ意志的である人々、または一歩先の見通しも利かない無知蒙昧[モウマイ]な盲目的大衆の場合、あるいはどちら側でもなく軽薄で敗北主義的な現状肯定論者、つまり三者のタイプに大方の国民が大別されるが、それらの人々は戦後教育やメディアのあり方を端的に表す写し鏡ともいえるだろう。

     私は危機感を持っている。ある人は情報に躍らされ周りを異常に気にし、またある人は世間の出来事に全く関心を持たず自らのことしか考えられないようになっていく。メディアに対して受動的に(つまり伝えられるだけの一方的な関わり方では、そういう症状は早々に出やすくなる)関わる時間が多ければ多いほど、人間としてのまともな感情システムが加速度を増して侵されていくのだ。
     前述した窃視的な感覚というものは、あらゆる選択に対して大勢の顔色を窺い倣うの態度を常とする消極的な無名者か、半自覚的な、場合によって生ぬるい自己卑下のポーズを以って慰みとする人らの感情なのである。
     前者後者どちらも、結局拠りどころの不確かな感覚に長時間浸され、外気を感覚出来ないたるんだ皮膚に、長い長い夢を今でも見させられ続けている。ふやけた頭を持った状態でメディアを通すことでしか世の中が見えない。それが前提となっているのだ。またはかような見方以外の世界は馴染み深いものでないし、自らに深く問いかけ、深く傷つけるかもしれない。だから与えられた安穏とした世界、ぬくもりの中で眠りたいのだ。何かに震えながらであったとしても。
     
     そのような国民を量産することにどんな意味があるというのか。死ねばもろともだとでも言いたいのかもしれない。あるいは、もう進むしかないのだろうか。私は何についても、……いや実際には無知と浅薄さからの勘違いが多いに含まれているくらいなら、むしろ私は何も考えないほうが良いのか。若者なら若者らしく、毎日女の子と話をしたりSEXの機会を窺って、時々空想物語を頭に浮かべているくらいが正しい生き方なのか? 私は孤立している!! この瞬間、特に強く感じられて仕方ないのだ。
     明日は明日の風が吹く……そんなところでいいのか? 昨日からあきらかに疲れている我がこの身、別になにも進歩はしていない

    〈6〉/〈6〉
    追記〈3〉 2013/10/25 私がぬるい状況理解にあったことを気付かずにいたのか、ある意味では盲ていたのだろうか。数日前、自民党内で特定秘密保護法案が了承された。特定権者による三十年以上の恣意的な延長を避けるために内閣の承認が必要なそうだが。しかしそれは、果たしてオープン化を阻み続けるために古い闇から新しい闇への単なる橋渡しがされるとの宣言であり、覆いに囲われているであろう実際の手続の過程をどこまで知ることが出来るのか。
    「知る権利」や報道の自由に配慮する旨が明記される運びとなったのは、特に連立を組む党によるところがあったとも言われる、が。確かに条文へと記されるのは大前提として欠くべからざることであっても、問題としない、著しく不当なものでない適正な方法による取材活動とは何なのか。一体誰がそれを決め、問題がもしあった時に誰が判断するのか。そもそも記者がリークを求め官僚が応じなければ、大体が機密に近い情報を集めようがないのでは。
     特定秘密は絶対に秘匿で周辺下位指定までのものは許されるが、公務員側は利益の収賄があった場合はNG、記者側は結局クラブ発表や懇意にしている相手との、日常会話的な遣り取り内でポロッとこぼれた(つまり互いの示し合わせが明明白白とはいえ、偶然さが上手く装われた剣呑さのないリーク)情報であればなんとかOKということか、……いまいち分からない。

     解釈次第で濫用されている法律の一つとして、個人情報保護法がある。現在ではほとんどの企業で顧客管理や商品開発、事故処理等のために膨大な個人情報を抱え、それら利用するためにも適正な保護を企業の使命とする現実がある。でありながら一方、普段外側に向けてはどこも無難な似たり寄ったりの保身的な文言が書かれている程度でしかなく、どの組織も通り一遍な扱いをしているものでしかない。
     そして個人情報漏洩が起こった際には性懲りもなく毎度おなじみで、経営陣の面々が頭を下げ、マスコミを通してテンプレート謝罪がなされる。だけのわりに、一転して言わば自分たちにとって本当の有事になると早速あれらの文言やら規定やらを持ち出し、というよりも翻[ヒルガエ]り詭弁[キベン]的な拡大解釈を早速始めるのだ。
    『一方で問題を起こした社員や、内部の人間が絡むシステムの欠陥に対する特定や原因究明も、やはり個人の情報(企業が一般的に通常時使う意味合いの、利用するばかりが優先される顧客の個人情報ではなく、個人の情報!)に関わっている部分があるのは変わりないので企業として守らなければならなりません。外部に漏らすのは適当でないので内々でちゃんと処理をします』と。
     まず優先的に解決しなければならない事柄への追及なのであって、相当程度に生命身体への、しかも個人自身の重大なミスや意図的な不正行為によって被害が発生したのでない限りは、担当部署以上が責任をもって折衝[セッショウ]すればよいはずだ。当事者の身元を割ることが最大の目的ではない。ともかくの窓口(露骨に叩くだけの標的とはしない)となる責任の所在確認と、問題があったシステムや意思伝達過程を改善させるのが眼目であるという、かってまでの理屈が当然に通用しないのだ。
     個人情報保護の名の下にもっとも直接に関わる当人の存在を過剰に曖昧化させ、何も喋らせないよう口を塞いでしまえば、その姿勢はむしろ部署ぐるみかもしくは組織全体の隠蔽体質をすら疑わせる結果となるだけなのだ。
     元々機構が複雑に絡み合った鎖のように互いを、さらに幾重にも守られた中枢を有する巨大組織や、意思決定がどこでいつ行われているのか外側から分からない、カフカの『城』的迷宮である大企業・官庁・役所で起こされた問題の責任追及をよりしにくいものにさせたのである。
     いいように解釈され濫用された結果として、市民・消費者の個人情報は利用されるだけ利用され、ろくに保護もされず、あるいは売り渡される。社会への影響力を考えて常に活動し、日頃から規制当局や市民団体だけでなく、消費者となる多くの国民が自ら全体の利益のために監視しなければならない大企業、さらにより高い倫理観を求められる公共機関に、本来不正に対して入れなければならないメスを弾き返す頑丈な殻を与えてしまったのだ。

     さらには大抵大企業が起こした、そして隠蔽しようとする類の事案は消費者庁、各事故調――公取や金融庁が出張る時は前者と同様に改善を組織に求めつつも、刑事告発や追徴課税等の具体的懲罰を求めることがほぼ基本となる――が担当する場合が多く(二次調査としてであれ)、上記組織は犯人探しを積極的にするよりもシステム改善を求めることが基本の姿勢となる。そうなってくると本当は隠れ蓑にしようとした個人の情報保護の、より後ろにある経営者自身の責任や組織改善、賠償への金銭的な根拠をがっちり掴まれるのではないかと恐れさせる。芋づる式に奥の院であるそちらに入って来られないよう、現実には言わば社員を守る振りをしながら捨て駒になっても構わないつもりで盾にしているのだ。
     彼らはいつでもトカゲのしっぽを切るつもりでナタを隠し持っているし、組織のため(加えて自分たちに近しい、立場を持ち回りする幹部連たちのため)とのお題目を唱え平気で振り下ろすだろう。これらは個人情報保護による責任の曖昧化では組織を守り切れないと判断した時の、次にとられる選択肢だ。 追記〈3〉了




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    テーマ : 物書きのひとりごと
    ジャンル : 小説・文学

    日記2004を通しで【4】輪郭が風化する。残されたものは





    (6777字/2004年3月1日に記す/2013年10月補筆修正)
    〔1〕/〔5〕
     今日はこんな話。
     戦時中に仲間をくじ引きの結果殺し、その肉を食べた人の話。
     元戦友の一人をついに執念で探し出した当ドキュメンタリー作品の主人公である老人(O氏)。居場所を突然尋ねられ運命の忌まわしき日のことについて詰め寄られた老人(?氏)はO氏以上に随分と弱弱しい様子で、はっきり言えば病み老いさらばえた悲しい老人としか映らない。しかし相対する二人は、かつて残酷にもくじ引きで生死のやり取りをした、固い絆に結ばれた部隊の仲間であった。

     彼らは一体どんな戦場を体験してきたのか? それはもちろん私にも現代の若者にも分かりようが無い。旧友でありかつては戦場で命を預けあった仲間の家を初めて尋ねた彼は、土産一つ持たず玄関の前に仁王立ちになった。老人同士の挨拶ついでにといった具合に、ありふれた昔話を持ち出して話の端緒を作り出すことも一切せず、蒲団に寝付く老人に早速詰め寄る。
     O氏の表情や言動からすると、やはりどうしても当事者である元戦友が忘れてしまったり、遠い過去の出来事として、価値のないものであると打ち捨ててしまったりを断じて許さないという、決然たる様子なのだ。自分たちが平穏な世界で安逸に生きることは許されないとし、また過去の罪業を背負った形であれ、それを一人で胸のうちに隠し続け、人生もろとも墓場に持っていく貝の如き罪人の真似も認められないと頑なに主張をするのだった。

     O氏は当時の出来事を白日のもとに晒す中で、戦争を幻想化し兵士と戦場を美化する傾向のある当時の若者に、実際にあった現実の不条理さや残酷さを伝えんとしたらしい。
     言動は一見すると冷静で、過去の自身の行為に強い自責を感じ、そのような行いにまで至った部隊に所属する同僚の極限的な心理状況を理解すること、つまり過去を振り返り真摯に現実へと向き合うことが最も重要だと考えていた。どうして最悪の結論を導いてしまったのかについて理由を、自分自身の記憶やある意味では煎じ詰め過ぎた観念だけでなく、当時の共犯者の話を聞き明白にしたいというのだった。
     その姿勢自体は自分たちの行為の罪深さを真正面から見つめ、最大のタブーとされる一線を何故踏み越えてしまったのかを、自身に向かってひたすら問うているようにも見える。
     罪を受け入れ、受け入れつつも一瞬のちには再び罪を犯せずにはおれない人間の原罪ともいえる愚かさ、とある瞬間に突然姿を表す我が身を滅ぼしかねないほどの強烈な生への執着、そういったものから目を逸らさずにいる、あるいは何かを見出そうと希求する精神をO氏に見ることも出来なくもないが……。
     何かにつまづいたかのように、少しよろめきながら前のめりになる勢いもあってか玄関から土間を一気に渡りきった。氏は至って冷静な顔をしているとも見えたが、やはり内心は名状しがたい想いに囚われていたのではないか。蒲団に寝入る、見るからに病身と思われる戦友に掴みかかったのだった。


    〔2〕/〔5〕
     周りの(クラスの)人間は「いきなり今さら来られたって」とか「迷惑なだけだ」などと口々にする有り様。とはいえありがちな、予定調和へ傾いた波風の立てない反応を試し々々口にしたのだろうと理解したところへ、しかし結局、彼らから期待に続く言葉は発せられなかった。比較的席の空いていた昼下がりの教室では各々、あくまでも自由な楽な姿勢でテレビに身体を傾けていた。
     クラス全体で見ると残っているのは半分の人数しかいなかった。元々人気があるとは言い難い講義だったし、後の半分近くは早々に学校から立ち去ったか、家に帰るか街中でうろうろとしていたのかもしれない。

     話を戻すとつまり、戦争を共にした男たちにはO氏と同じく過去の現実が現在にまで重みとしてのしかかるべきであって、決して忘却のかなたへと逃げ去ることは許せなかった。おそらく自分自身に対してはさらなる苛烈さでだろう。
     時代も異なる当事者でもないこの身で、責任意識を感じてみる困難さ、自ら判断をせずにいられる立場にあることで私に差し迫る息苦しさは無く、目の前に示されたO氏からの要求・糾弾を受け入れるか拒否する以前に、ひとまず冷静に考えられる幾分かの距離感を少量に意識しつ、それでもやはり至極当然だと思えた。

    追記 2013・10・20  クラスメイトへ手前勝手な弁解を少ししたい。当時の私は正直にいえばこんなこともまず感じた。
     古いフィルムへ着実にその場で動くことなく封印された、古い空気や彼から主張される熱気もまるで位相がずれていて、現代人に理解しづらい昔流行った感情表現のように阻害要因としてあり、色彩の不鮮明な牧歌的なカラー映像は妙に読み解きの難解な錯綜したグロテスク映像と勝手に受け取れつつ、同時に一歩間違えば滑稽さに転落しそうな暗黒シュール劇の雰囲気に拍車をかけているふうに、まずの第一印象として持ってもいたのだった。 (追記了)

     彼はそれを明確に意識していて、一方で目を背けようとする――ほとんど忘却の彼方の出来事として――元戦友の精神の深く底流にも、薄まり弱まったとはいえ未だ流れているもの、一言でいえば〈呪い〉だ。
     これは主に日本古来から存在している、例えば密教や陰陽道等の教えの中で取り扱う、特殊な儀式を行うことで超自然的な力によって現実に影響を及ぼそうとする呪術のことを指しているのではない。
     いわば宗教的特殊技能の一連で体系化されたオカルト的力能ではなくもっと原初的な、つまり死者の感情。〈呪い〉とは、死者の記憶が然々であったに違いないという強い囚われから逃れられない心理状態を指し、またそこから発生する。

     死者であるがゆえ感情の行き場も収まりも無く、結局は感情の質や方向を想像する(考える)生者側から産み出された想起である。しかし生者が一方的に見出した感覚であっても、死者の感情(どこまでも想像でしかないが)から生者の想起へと、単に偶然の思いつきによって見いだされたわけではないのだ。
     死者の感情は当然形がはっきりしない。ただ、起因も理由もそれからであったにしようとも、関係性の深浅に関わらず、受け取れる人間と受け取れない人間がいる。共鳴する周波数(これを規定するのも生きている受け取り側、正確に言えば意識・無意識的にせよ受け取りたい側ではある)を持つ死者と生者の同調によって増幅され固着化した想念と感覚、それが〈呪い〉なのだ。
     氏の過去を悔いる感情が強ければ、また死んだ戦友についてを考えれば考えるほどに自身を囚らえ、苦しめる。一方、寝床で過去を忘却の彼方に葬り去ったことさえもしばしのあいだ失念としていた戦友は、老体に及ぶ自然な生理としての忘却が理由ではなく、資格を喪失または放棄した者となったからこそほとんど受け取る(〈呪い〉を実感)ことが出来ない。
     ゆえに、失望と怒りが今にも覆い尽くさんとする身を以ってして、彼に思い出させたい、せめてこの現実が「あの」過去から続いているのだと認めさせたいのだ。


    〔3〕/〔5〕
     兵士たちを代弁するという形で彼は熱に浮かされ、数十年前に死んだ若き日の戦友が乗り移ったかに激越して力強く、生き残りの老人に問いかける。映像を見た限りでは元戦友は半身に不自由を感じさせる身体を寝床に横たえていた。
     何故あのような行動に出たのか――ついに掴みかかろうとするところはさすがに相手の状態を考えれば暴挙としか言えないが、であろうとどうしてもせざるを得なかった――、それが分からない人間には後のことも、取っ組み合った事情も理解出来ないはず。O氏は一見すると、というよりもあの場の相手からは狂人じみて見えたに違いない。しかしもちろん彼は狂人なのではなく、ただ単に、純粋にと言っていいほど戦中の忌まわしい事件について究明したいとの気持ちと、さらにより強い謝罪心だけが――本当は自殺願望だったのかもしれないが――前面にあったのではないか? 
     もはや戦後四十年ののち、自らを騙し々々それすらも到底意識に上らなくなった戦友たちや、直接関係の無い家族にしてみれば、突然の不吉な訪問者の行動は「なぜ今さらそんな話を?」「わざわざ思い出させないでくれ」と戸惑い、疎ませるものだったかもしれない。
     確かに家族は実際当事者でないのだからとしても、やはり親(親世代)の体験を記憶することが望まれる責任に近いものを負っているし、老人に対して酷な言い方かもしれないが――当事者に至っては絶対にそのことを忘れたり(忘れた振りをしたり)、無視をしていたりするのが許される問題でないことは言うまでもないのだ。


                    3月5日

     Hello!! (ひさしぶり)
     一連の行為は戦争犯罪というものなのではないだろうかと設問し、そもそも戦争犯罪とは何であるかについても考えを及ばせつつ(可能ならば)、さらに如何ばかりか筆を進めたい。
     私は元戦友の居場所を突き止めわざわざ老身を推して迫り、さらに掴みかかろうとするまでに至った行為を呪いと書いたが、それを証明したり裏付けるとでも言おうか、囚われていると感じさせるような実際の行動を画面で目にした。彼からはしきりに「天罰」という言葉が口をついて出、あなたが足を悪くしたのも「天罰」だし、こうやって戦後四十年近く経って、なおも思いを吹っ切ることが出来ずにいる自身も同様であるとO氏は断言する。
     天罰とはなんとも耳慣れない言葉であるし、贖罪[ショクザイ]を求める人々の頭を押さえつけまたは罪人を裁くための口実としては最適のものだ。私は最初ここに胡散臭さを見たことは確かだ。彼自身(O氏)仏教徒であれキリスト教徒であれ、神仏を熱心に拝している場面であったり、直前までの言動からしても深い帰依[キエ]をしているところは窺えず、少なくともそんな様子は映像内には表れない。
     突然「私がこうしているのは――」とまではいいとしても、続いて本来は感情を伝えるのみでなく自分の行動が意味するところへと理解を求め、思い出し振り返って真に過去を認めさせなければならないはずの相手に向かって、何故天罰という目に見えないまるで一足飛びの論理を持ち出し、それを求めるものにとって都合の良いかなり強引な言い方に変えてしまったのか。
     しかも、実際に身体を悪くし長い間苦労を味わっている人間に対して、「あなたの足が悪いのは」天罰が理由だなどと言ったら、とりあえず心証を悪くすることは間違いないのだが。実に不思議でもあり、多少滑稽にも映るといった反転した印象は避けがたい。
     それらの見方でいると、ついに足の悪い戦友を殴った行為や警察を呼んだ行為も白々しい茶番のように見えてしまうのだった。つまり、彼は自分自身の気分を完全には整理も出来ず、仮に相手へ伝えても罪の意識を植えつけるだけの効果が無いこともなんとなく分かっていた。


    〔4〕/〔5〕(残2517字)
     何よりも相手は色々な理由を並べ ――平穏な生活を営む一人間に対しては、過去の罪過を何とかしてまで突き止めていくのが(外圧・内圧を問わず)難しいのも当然ではあり――、彼の言う贖罪をどうあっても頑として撥ね付けるだろう。
     それら態度は、第三者の目から見れば仕方がないのではとも思わざるを得ない。もっと根本的なレベルで言うと、やはりそれを認めてしまえば、現在の自分を否定することになりかねない感覚を危惧したと想像するのは容易い。 
     理屈はおろか感情すらも伝わらない歯がゆさはO氏自身にあったとして、にしても実はかなりの程度で目の前の反応が当然なのだろうと、あらかじめ察して(諦めて)いた部分があったのかもしれない。
     そこで彼は「天罰」という言葉を持ち出してきたわけだが、かなり場違いな感じと言ったらいいか、口にした自身にすら、半ば自棄になって口をついて出てしまった瞬間のちに、後悔か羞恥かせいぜいバツの悪さを抱かせはしなかったか。

     事件が事件として意味を持つのは、一定の規則と合意によって秩序が定められ、多数の人間によって求められる姿が平時であると仮定している状態に対して、それを乱すことやまたは否定したときである。
     しかし今回は戦争という異常な状況の中で起こったとされる事件であり、となると変化が乏しくとも平穏安寧が最大の価値であるとする主張で形成された秩序の意味と、それが保たれている日常とは異なる規則と論理が戦争に存在することは、無視して論じたりは出来ない。確かに戦場での個々人の行為は軍規や戦争法によって厳しく戒められている一方、正式な手段を用いれば合法的に殺人が認められている状況は、常に人間性の逸脱を孕んでいると言っていいのだ。
     較べれば、憎しみや金銭に絡む個人の利害による殺人はある意味では健全ですらあるのだ。普段生命の尊厳や個人の権利の尊重をひたすら主張し、いずれ全地球人類に適用されるべき価値があると理念に掲げているはずの国家が一転、突然掌を返したように殺人を肯定(推奨)する。
     今回の事件(?)は、後数日で餓死するであろう現実を前にし人肉を口にしたという話だ。
     戦況の絶望感は生きる気力を失わせるほどであり、それでもやはり生存への欲求といったものはかなり強く、空腹になるにつれ増大する飢餓感は、あるいは戦場で生き残ることだけを正義とする一兵卒の倫理ではなく、またのみならず、ただ生きたいと願い行動する人間の最大最後に表れる欲求ではないだろうか。そう考えると、例の事件(?)を起こした当人を責められるのか、そもそもそれを事件と呼べるのだろうかという疑問に突き当たるのだ。


    〔5〕/〔5〕 
     ミッドウェイ海戦以降急速に制海権の範囲を狭め、補給路を立たれた南方戦線に向けて次々と送り込まれた兵士たちは、劣勢を告げられずにたどり着いた戦地で惨状を確認することとなった。
     銃弾で身体を貫かれ地雷で吹き飛ばされることは苦痛であっただろうが、一瞬で死んでしまうならばまだマシだったのかもしれない。
     南方戦線では物資の不足は食料どころか薬品にもおよび、赤痢やマラリア等の伝染病に長期間にわたって苦しめられた末に、なんの手も打てずに衰弱して亡くなっていった兵士が相当な数に上るといわれている。運よく病気に罹らなかった兵士、何とか病状を押さえ込み部隊に随伴する半死半生の敗残兵、現場では士官すらも空腹にあえぎ一兵卒ともなれば尚更であったと思われる。

     人間の掌を縦半分に切断してそれを口にするとき、結果的に元の形が分かれば分かるほど当然食べづらい。まずは人間の肉を口にすることに対して口腔や消化器内部からの拒絶感が、そして消化されるに従い自ら全体(身体・心・存在)が穢れへと苛まれる感覚があり、よしんば現在身体の一部になり命を繋いでいるものだとしても、やはり〈呪い〉の発生源の一つだといえるかもしれない。
     人間として「人間の倫理に背き、また純粋に沿い過ぎた行為」よって、身体性の保持の過程から統合に至る観念的なレベルの――O氏の場合あるいは越えた感覚で――異物・違和感、一種強烈な穢れの意識が引き起こされているのではないか。

     いつまでも打ち捨てすることを許さず(許されず)囚われた想いに従うが正しいと信じ、そうせざるを得なくなった彼はさらに自身に追い討ちをかけるように同じ言葉を発する。どこまでも自分を強迫・服従させ続けんとする、それが正に〈呪い〉なのだ。
     言葉で言い表せない感情は、元上官(病身の戦友とは別に訪ねた)との面会の後日にその長男を拳銃で撃ってしまうという、悲しき凶行の形で表わされたのだった。
     もはや、彼らの戦時中の行為を――特に組織的に行われたわけでない、個人的生命における最後に発せられた要請の末の蛮行であるとすれば――断罪することの不可能性について考えを及ばさなければならないのかもしれない。
     そこで彼にはいわば苦し紛れというかある意味のすがりつきとして、「天罰」という形で自らも戦友ももろともの断罪に最後の望みを託す以外、選択肢は残されていなかったのではないだろうか? 
     しかし「天罰」が覿面[テキメン]に彼ら(O氏はおそらく、自分の罪はもっとさらに重いと考えていたから)を罰してはくれない以上、ああいった全国行脚[アンギャ]のようなことをさせる自身の暗流とも表現出来る囚われの極まりに生きるしかなかった。結局は〈呪い〉からの解放を願い救いの求めすらも許されない、無間[ムゲン]地獄の絶望にしか居場所を見出だせずにいる姿、はっきりとした「天罰」の訪れをひたすらに待ちわびるむなしい姿だけがある、と感じてしまうのだ。

     戦場から数十年経て、法は変わり人心はそれを状況として認めざるを得ないか目を背けた。戦争犯罪人として最終的に総括されなかった者、特に一般兵、現代ではそんな罪無しの罪を裁く方法はない。
     彼が求める限りには自ら明確に残された輪郭も、ただ外側の人々にとっては色褪せた時代が後退する速度に付随して風化する。その中身(極限状況下における人間の「異常」心理)に理解の試みを全く止めた以降の時代では、元から存在していないとさえ見做されるかあるいは永久に棚上げされた罪だからなのだ。




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    日記2004通しで【1】『日記を始めるにあたって』/【2】『貧すれば鈍すれば貧す』





    【1】『日記を始めるにあたって』(872字/2004年2月12日に記す/2013年10月補筆修正)
    〔1〕/〔1〕
     日記を書いておく習慣は私にとって少々難儀なものかもしれない。今までに日記を書こうと試みたことはなく、おそらく続くはずがないと思っていたからだが、それにしても日記の本来的な役割、意義とは一体どのようなものであるのか?
     そんなことを多少なりとも考えると、どうしても元々の不精な性格が災いして、結局は筆を執るという行為を縁遠くさせていた。
     数年後、私は再び日々の記録を紙に記すべく行為をやめているのではないか。ただなにかの折にふとこのノートを見つけ、手に取るとき――中を見る勇気があるならば――過去の自分自身との束の間の邂逅を、やはり得ることになるだろう。
     果たして私にとってどんな意味があるか、言うまでもなく現在からは知りようもない。しかしどういった形で示されていようとも、やはり不動の存在と感じるのが時間というものだ。
     それだけはこの目の前で姿を現すことになる。例えば悲しみ、怒り憤懣、憂鬱もちろん喜び、のちに恥じらいを以って迎える涙もその一つ一つが、あるいは混ぜ合わされた感情の四季がさらに多様な姿をして迫る。

     そのとき私はうろたえずに目を背けずに、平然とした態度で少なくとも過去に対して胸を張るとまでは行かなくとも、ノートに目を写した瞬間から脳髄がそこに書かれている言葉を理解した上で、過ぎ去った時間への苛烈なまでの囚われを避けていられるか?
     正直に言ってあまり自信は無い。ただ同時に、いささか性急にひとり合点をした思い煩い自体無意味なのではないか、そういう風に向き合う姿勢も悪くないと最近は多少開き直ってもいるのだ。
     過去を全て美化することこそ、過去への冒涜であり、汚辱的行為である。事実を事実として捉えない行為は醜悪であるといえるだろう。しかし、現実を「これが俺の現実だ」といって悲観したり、自虐的になるのも一種のナルシズムである。
         願わくば私に過去なるものが存在していることを当然に認め、それを斟酌無しに見定める力、ないしは根気を持って受け止める人生の経験が自身にいずれ身につくよう、現在はとりあえずの希望を持ちながらも祈りと勤勉を未来の自分に捧げたい。





    【2】『貧すれば鈍すれば貧す』(1220字/2004年2月14日に記す/2013年10月補筆修正)
    〔1〕/〔1〕
     Hello!! 昨日は日記をつけませんでした。だからどうしたわけではありませんが、多少の後悔とそれより少ないながらも罪悪感があります。
     現在は2月14日の午前二時と、少しばかり時間は過ぎたといっても昨朝から連続して起きているわけですから、一応は2月13日の日記ということにしておきます。

     犬の散歩ビジネスについてはどうなることやら分かりません。
     ポスターが出来たとて私のように無気力で活動力のない男に何が出来るのか、新しく始めるつもりの起業内容について話している最中にも、緩慢に訪れる、しかし後ろに引きようにも決して下がれなくなる一線を越える瞬間が、ひたひたと差し迫ってくるのを感じてはいます。
     ホームレスについての話というものは興味深く、しかも私と友人R立は、忌避・嫌悪または透明化さえしている同世代の人間よりも、ホームレスについての――もちろんある程度の留保と、彼らへの独善的な理解を避けなければとした危惧の感を忘れずにいつつも――一応の視線を持っているでしょう。
     これは実に重要なことで、自身がホームレスになる可能性について云々しようと実際に「なる」のは先の話ではあるだろうし、どちらにしろ考えてみたところでも頑是無いのでしょうが、それにしても自分たちの現状(見せ掛けだけの学生、職業を探すつもりはあるとしても、どうも切迫感もなければ大体希望自体が存在していると自分自身を騙しきれる自信もない)を鑑みると、当然未経験でありながらやはり同世代の人間よりは現実的直感に落とし込め、より将来に起こりえる地続きの感覚で受け止めることが出来るのではないかというわけです。
     ホームレスとはどのような状況、どのような心理であるのか、私ならば何を思うのか? とはいえ特に自らに引きつけてみたところで想像の域を出ず、やはりはっきりとは分からないのですね。確かに良しとはしないともちろん現在は考えているのですが、ひょっとしたらいざそのときになってみると『まあしょうがないな、これならこれでやっていくしかない。ああ、まずは差し当たりどうしようか』みたいに案外簡単に至るのではないかと。

     あるいはそういった状況が訪れるならば已む無しとして、多少なりとも肯定しているかもしれません。実際問題、際[キワ]とも呼べる状態になれば選択の余地があることは稀かもしれませんが。
     ほとんど意識下レベルにおいては現在の生活や立場(?)という一応の安定を打ち捨てることに対し、さほど自身の臆する姿を想像出来ず理由も見当たらない、つまり執着していないのではないかと思ってしまうのですね。
     これは一体全体どういうわけなのか。今更になってよく掴みきれていないのです。

     受け入れざるを得ない困惑する現状、受け入れ難さに繰り返される表明の戸惑い、今を嘆き届かぬ過去へ悔恨混じりに手を伸ばし、伏し目がちにあるいは定まらぬ中に渇望ばかりが生ぬるい熱を帯びた視線を送る――か。
     まあ、良しとしましょう。とりあえず明日へ、明日へと繋がる今日の最後の刻であるよう。




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    日記2004を通しで【3】『ああ、掃除日和かな?』





    【3】『嗚呼、掃除日和かな?』(3401字/2004年2月15日に記す/2013年10月補筆修正)
    〔1〕/〔3〕
     Hello!! 兄の部屋へ出入りしているおばあさんの立てる音が聞こえ、目が醒める。
     覗いてみるとかなり重そうな荷物(ダンボール)を運ぼうとしていた。放っておくわけにもいかないかなと、眠い頭を冷水で驚かしつつ徐々に現実の世界に足を踏み入れる。

     正直に言って、目覚めの一発にいきなりこんなことを手伝わされたら面倒だとばかり思っていた。
     しかし、おばあさんの必死で困り果て少し悲しんでもいるかの顔を近くに知りつつ、見て見ぬ振りは難しい。
     しかも動かそうとしていた荷物はかなり大きく多分に重量もあるようで、一人で持ち上げでもしようものなら膝や腰に負担が掛るだろうし――後で私が確認した限りでは、やはりおばあさん一人ではまず不可能なくらいの重量だった――、ひょっとしたら心臓に悪いのではないか?
     ズボンを履きベルトを締め、たまたま通りかかった調子でこちらにまだ気づいていない相手に声を掛けることにした。

     途中々々で何度も放り出したくなってしまう(別に本人が実家に帰ってくるでもないのに何故部屋の整理をするのか、連絡があってからでもいいのでは)仕事だったが、やはりおばあさんの顔をふと見るとここで面倒臭がって止めるわけにはいかないなあと感じさせられ、やっぱり部屋を出てしまおうかもしくは「今日はもう止めちまおうよ」と、迷いながらに幾度もかの説得が結局二の足を踏むことになる。
     仕事が終わりお好み焼きを作ってもらう。古い牛肉を使い切れてこれはこれで良かった。いつもの通り安定した味であるが、感謝の言葉がトッピングについていた。
     
     次に下駄箱中段の空白スペース(何と言うのか分からん)を片付けないかとの、勢い付いたおばあさんから提案。
     一度掃除心に火がつくと、意外と止め時を見失うほどにのめり込んでしまうことにもなるというものだ。その際一計を案じ、普段非協力的な当事者の妹にも参加してもらうための方策をおばあさんに伝授した。
     彼女の、本人もとうに存在を頭から抹消している古びて汚れた雑誌類や小物、どっかの心理セミナーから送られてきた案内書、下半分がちぎれ当然中の入っていないスナック菓子の外装用の型紙パックやら、くるりと内側に丸まり筒状になったコミックス、ラベルがとうに剥がれ伸びきった音楽テープといったものが、全く整理されることなく乱雑に下駄箱の中段に置いてある。

     ゴミ捨て場といってもいいくらいで、処理に困った物たちが一時的に避難する場所になっているのだが、大小様々の物品は『サイダーハウス・ルール』(ジョン・アーヴィング)「セント・クラウズ」のホーマー・ウェルズの持ち物のように、【いつまでもそこに――時に何度かは手に持たれ、数秒間のそのものの行く先についての思いがなされたとせよ、やはり(確実に)一時間後には――あった】
     とても良い考えを頭に浮かべ、私はなにやら上機嫌だった。
     というのもいつまでもゴミを捨てたがらない人間を相手にする際には、敢えて強制的に処断する少々強引な手合いに物を捨ててしまう選択も、ときには取り得る有効な手段の一つであると気づいたからだ。


    〔2〕/〔3〕
     本人自らもゴミであることを内心では認めていないわけでもないのだが、口にするのを何故か避けるのが大抵なのである(『確かにいらない』とは口に出来ない理由があるというよりも、むしろ判断する行為自体を億劫であるとする感覚が強い)。
     そのときに重要な物(本人が思う)や価値のある物(本人が思う)を、しっかりと確認した上で取っておく態度を示すのが大切なのだ。そうすることによって『全てを何でもかんでも捨てるわけではないんだな』と少しばかり気を許し、次第に警戒感を解いてくれると期待出来る。

     ある程度は強硬手段を、あくまでもある程度は許容可能な範囲に受け取ってくれるのだ。少なくとも安定した処理のペースが続いているあいだは、常に作業の手を止めて話し合いを持つことが出来るくらいに相手も落ち着いている。
     実はそのような状態が続いている限り、普段進んで物を捨てたがらない人間も『ああ、そういえばこんなものもあったか。だけど取り立てて必要とするものではないな』などと気持ちも柔軟になり、わざわざ元に戻したりはしないのである。
     基本的に面倒臭がりの人間の性質を逆手に取る――というと聞こえは悪いが――やり方なのだ。

     私はとりあえず自室でゲームをやりながら、ひそかに妹とおばあさんの捗り具合の様子を窺い、停滞気味になりかかったところでやがて階段を降りていった。
     もちろんこれらのやり方が逆効果である場合も少なくはないだろうが、こればかりはどうしようもなく現実的な要請の点からいっても、まずはやらざるを得ない。
     だとすれば、以降も試行錯誤を忘れず当人の意志を相当に尊重する行動規範を旨として、これがとりあえずの始まりにあってはベターだと結論が導き出されることも、それほど不自然なものではない。

     物に対する収集――というより、少なくしか捨てられずに多くを集めてしまう癖(正確には要る物と要らない物を区別出来ない、あるいはしたがらない)は多少の差こそあれ、一定程度は多くの人間に存在する囚われ的な情緒の姿であって、彼女の場合も如何にも病的な現れではないのではないか。
     そう思いたい気持ちもあるし、真も多少ならずあるのではないか? 
     一方で単に、私の掃除心の火がいつの間にか最初に事を始めたおばあさん以上にかなり勢いがつき、早目の昼食から昼下がりを迎えた時間帯でも相変わらず燻っていたので、傍から見た姿は半ば強引に付きあわせている感じにも見えなくもないのだったろう。


    〔3〕/〔3〕
     夕方からは両親の部屋の物品移動をする。仏壇はかなり重く、普段は不信心の父が何故か仏壇の中の曼荼羅を殊更慎重に扱うのは、なんとも違和感があり可笑しくもある。
     結局洋服ダンスに本棚、小さめの雑用ダンスと決められた順番で広くもない部屋内を倉庫番さながらに運び、私の替えたばかりのシャツはほこりと汗で致命的に汚れてしまった。
     父の本棚を整理していると、宗教や心理学、あるいは思想やジャズに関する本以外に哲学書や小説なども出てきた。サルトル数冊にハイデガーの『存在と時間』、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』続編も含め、また大江健三郎の『性的人間』『われらの時代』(性的存在としての人間にかなり関心があったみたいだ)など。
     知る限り父は全く小説を読まないから、これには少しばかり驚きを持った。しかしいま考えてみると、上に挙げたものにしろ『海を見ていたジョニー』やら五木寛之他著書にしても、やはり時代的な思想を作家がどのように解釈し、受け入れ、咀嚼したのちに彼らなりの言葉で如何に表現するかを自ら強く問うている作品が多い。

     晩飯は水菜と牛肉の叩きサラダであった。あれは今や私の好物の一つである。これまで短期間に人の食に対する好みが変化し、また形成されるところを経験すると、それにしたって不思議なものだと我ながら感心してしまう。
     今日はこれくらいにしておこうかと思う。時間も遅いので吉本隆明の『マス・イメージ論』を読んで寝る。ついでに村上春樹の『うずまき猫のみつけかた』も少しめくっておきたい。
     吉本の本は久しぶりに読み応えのある本だ。表現も思想家にしては面白く――詩人でもあるから、かもしれないが――やはり、相当に難しい。こういった本を読んでいると、クラスメートとの唯一の違いのようなものを感じられて、恥ずかしい話だが有体に言えば少々(実はかなり)悪くない気分なのだ。まあいいさ、誰だって優越感を得るために必死だ。それが人に見える形かそうでないか、やはり確かに些細な違いでしかない。
     また人によってはあまり多数に価値をしっかりと認められていない優越の対象を、自尊心を高め、または自慢をするほどに価値のないものとして馬鹿にすることがある。
     ある人は他人が口の端に乗せ、目の前に提示する対象を精査しつつも、その中で他人に対して羞恥心なく示せる対象とはどれとどれであるといった具合に、リストを作り出してしまうのだ。結局彼らは、いじましくも各々だったり自身が抱え込む対象の出自の確かさ(?)を見極め処断する、陰性の優越感を得るのであった。
     もう書くことが無いわけではないが、まとまりが悪くなってきたのでそろそろ筆をおくことにする。明日は、晴れていればなんとか元気にやっていけそうなので……晴れて下さい。




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